2世紀の終わりごろ、倭(日本)の国々は何年も争い合っていた。中国の歴史書『魏志』倭人伝は、男の王が70〜80年ほど治めたあと国が乱れたと記している。卑弥呼が生まれた年や家族のことは分かっていない(諸説あり)。
彼女は「鬼道」と呼ばれる占いやまつりの力にすぐれ、人々を引きつけたと『魏志』倭人伝は伝える。神の声を聞き、その言葉で人々の心をまとめる、まじないの力をもつ女性だったと考えられている。
争いに疲れた国々の王たちは話し合い、彼女を共通の女王に立てた(このころ)。すると長く続いた戦いがようやく静まり、30ほどの国が邪馬台国の女王のもとにまとまったという。
女王になってからは、ほとんど人前に姿を見せなかった。千人の侍女が仕え、ただ一人の男性が食事を運び言葉を取り次いだ。夫はおらず、弟が政治を助けたという。宮殿は物見やぐらと柵で守られ、いつも兵が見張っていた。
家臣の難升米らを、朝鮮半島の帯方郡を通して魏の都・洛陽へ送った(238年説もある)。魏の皇帝は使いを喜び、「親魏倭王」の称号と金印、そして銅鏡百枚などを授けたという。
帯方郡の役人が倭にやって来て、皇帝の詔書や金印、贈り物を届けた。卑弥呼は感謝の手紙を書いて返したと記されている。
再び使いを魏に送り、布や弓などの贈り物を届けた。海をこえた大国との結びつきは、女王の力を支えるものでもあった。
南の狗奴国の男の王・卑弥弓呼と争いになり、帯方郡に助けを求めた。魏は役人の張政を送り、戦いをやめるよう呼びかける文書を届けた。
このころ卑弥呼は亡くなった(諸説あり)。直径百歩あまりの大きな墓がつくられたという。その後、男の王が立ったが国は再び乱れ、一族の少女・壱与が女王となってようやく治まった。邪馬台国の場所は、今も九州説と近畿説などに分かれている。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。