何をした人?
奈良時代の天皇です。ききんや疫病、反乱が続くなか、仏教の力で国を守ろうと考え、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、東大寺の大仏を造らせました。妻の光明皇后とともに、正倉院に伝わる宝物でも知られます。
| 名前 | 聖武天皇 |
|---|---|
| 生没年 | 701年(大宝元年) – 756年(天平勝宝8歳) |
| 時代 | 奈良時代 |
| 別名 | 首皇子(おびとのみこ) |
| 主な業績 |
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文武天皇と藤原不比等の娘・宮子の皇子として生まれた。名は首皇子。この年、国の基本となる法・大宝律令が完成している。
6歳のとき父の文武天皇が亡くなった。皇子が幼かったため、祖母の元明天皇が位についた。母の宮子は心の病で長く皇子に会えなかったと伝わる。
都が奈良の平城京に移された。少年は、碁盤の目のように整った新しい都で育った。
13歳で皇太子となった。2年後、母方の祖父・藤原不比等の娘・光明子(安宿媛)を妃に迎えた。
おばの元正天皇から位をゆずられ、23歳で即位した。藤原氏と皇族の間で、政治の主導権をめぐる駆け引きが続いていた。
有力な皇族・長屋王が謀反の疑いをかけられ、自ら命を絶った(長屋王の変)。同じ年、光明子が皇族以外から初めて皇后となった。
天然痘が大流行し、政治を担っていた藤原四兄弟も相次いで亡くなった。多くの民も命を落とし、天皇は心を痛めて、仏の力にすがろうとした。
九州で藤原広嗣が兵を挙げた(藤原広嗣の乱)。乱はまもなく収まったが、天皇は平城京を離れ、恭仁京、難波宮、紫香楽宮と、5年ほど都を移し続けた。
国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じた。仏教の力で災いをしずめ、国を守ろうという願いだった。
紫香楽宮で、大仏をつくる詔を出した。「天下の富も力も私が持つ。しかし一枝の草、ひとすくいの土でも持ち寄って協力してほしい」と呼びかけ、民衆に慕われた僧・行基の力を借りた。同じ年、墾田永年私財法も出された。
5年ぶりに都を平城京へ戻し、東大寺で大仏づくりが本格的に始まった。
陸奥(東北地方)で金が見つかり、大仏を金色にかがやかせられると大いに喜んだ。この年、娘の孝謙天皇に位をゆずった。
ついに大仏が完成し、盛大な開眼供養が行われた。インドから来た僧・菩提僊那が大仏に目を入れる役をつとめ、一万人もの僧が集まったという。
唐から苦難の末にやって来た鑑真から、光明皇太后らとともに戒を授かった。
55歳で亡くなった。光明皇太后は愛用の品々を東大寺の大仏に納め、それらは今も正倉院の宝物として伝わっている。
A. 奈良時代の天皇です。ききんや疫病、反乱が続くなか、仏教の力で国を守ろうと考え、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、東大寺の大仏を造らせました。妻の光明皇后とともに、正倉院に伝わる宝物でも知られます。
A. 奈良時代の人物です。701年(大宝元年)に生まれ、756年(天平勝宝8歳)に亡くなりました。
A. 天然痘の流行やききん、藤原広嗣の乱などで世の中が不安定になり、仏の力で国の平和を守ろうと考えたためとされます。大仏は752年に開眼供養が行われました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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