何をした人?
平安時代中期の女房(宮中に仕える女性)で、長編物語『源氏物語』の作者です。藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子に仕え、宮中の様子を『紫式部日記』に書き残しました。本名や正確な生没年はわかっていません(諸説あり)。
| 名前 | 紫式部 |
|---|---|
| 生没年 | 973年 – 1014年 |
| 時代 | 平安時代 |
| 別名 | 藤式部(宮仕えでの呼び名) |
| 主な業績 |
|
学者・藤原為時の娘として生まれた(生年は諸説あり)。幼いころに母を亡くし、父のもとで育った。本当の名前は伝わっていない。
兄(弟とも)が父から習う漢文を、そばで聞いているだけで先に覚えてしまった。父は「この子が男でなかったのが残念だ」と嘆いたと、のちに自分の日記に書いている。
父が越前(福井県)の国司となり、ともに雪国へ下った。都育ちの彼女にとって、雪深い土地での暮らしは忘れられない経験となった。
ひとり都に戻り、年の離れた藤原宣孝と結婚した。翌年、娘の賢子が生まれた。賢子はのちに歌人・大弐三位として知られる。
夫が流行り病で亡くなった。わずか3年ほどの結婚生活だった。悲しみの中で彼女は物語を書き始めたといわれ、それが『源氏物語』の始まりだと考えられている。
物語の評判を聞いた藤原道長にまねかれ、娘で一条天皇の中宮・彰子に仕えた(1005年説も)。漢文が読めることを隠し、「一」という字も書けないふりをしていたと日記に書いている。
彰子が皇子を産み、宮廷は祝いにわいた。そのようすを『紫式部日記』に書き残した。祝いの席で藤原公任が「このあたりに若紫はいませんか」と呼びかけたと記しており、『源氏物語』がすでに読まれていたことが分かる。
このころ日記をまとめた。清少納言については「得意顔で漢字を書き散らしている」と厳しい言葉も残している。宮廷の人々を見る目は鋭く、自分自身の孤独な心もつづった。
一条天皇が亡くなったあとも、皇太后となった彰子に仕え続け、貴族との取り次ぎ役をつとめていたことが、藤原実資の日記からうかがえる。
このころ亡くなったと考えられている(没年は諸説あり)。光源氏とその子孫の一生を描いた長い物語は、千年後の今も世界中で読まれている。
A. 平安時代中期の女房(宮中に仕える女性)で、長編物語『源氏物語』の作者です。藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子に仕え、宮中の様子を『紫式部日記』に書き残しました。本名や正確な生没年はわかっていません(諸説あり)。
A. 平安時代の人物です。973年に生まれ、1014年に亡くなりました。
A. 光源氏という貴公子の恋と人生、そしてその子孫の物語を描いた、全54帖の長編物語です。1008年には宮中で読まれていたことが『紫式部日記』からわかり、世界でも古い長編小説の一つとされます。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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