近江国滋賀郡(滋賀県大津市)で、渡来系の三津首百枝の子として生まれた(766年説も)。幼い名は広野。
このころ近江の国分寺に入り、僧・行表のもとで学び始めた。2年後に得度して「最澄」と名のった。
奈良の東大寺で正式な僧となる戒を受けた。しかし出世の道を選ばず、故郷に近い比叡山に小さな庵を結んで、ひとり修行を始めた。
比叡山に一乗止観院(のちの延暦寺根本中堂)を建て、薬師如来をまつった。このとき灯したとされる「不滅の法灯」は、今も絶えず受け継がれているという。
天皇のそばで仏事をつとめる内供奉十禅師に選ばれた。のちに桓武天皇の厚い信頼を受けるようになる。
短い期間で学んで帰る還学生として、遣唐使とともに唐に渡った。同じ遣唐使の船団には、のちに真言宗を開く空海もいた。天台山で天台の教えを学んだ。
天台の教えに加え、禅や密教も学び、多くの経典を持って一年ほどで帰国した。病気がちだった桓武天皇のために祈りをささげた。
天台宗から毎年2人の僧を出すことが朝廷に認められた。これが天台宗の始まりとされる。
年下の空海から密教の灌頂を受け、経典を借りて学んだ。しかし弟子の泰範が空海のもとへ去り、経典の貸し借りでも考えが合わず、二人の関係はしだいに離れていった。
東国を回って教えを広め、会津の僧・徳一と、誰もが仏になれるのかをめぐって長い論争を交わした。
僧の育て方を定めた『山家学生式』を書いた。「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」と、自分の場所で精一杯つとめる人こそ国の宝だと説いた。比叡山で独自に戒を授ける戒壇をつくりたいと願い出たが、奈良の寺々は強く反対した。
比叡山で55歳で亡くなった。その7日後、願い続けた大乗戒壇が朝廷に認められた。のちに「伝教大師」の名を贈られ、延暦寺は法然・親鸞・日蓮らを育てる「日本仏教の母山」となった。
坂上田村麻呂空海菅原道真清少納言藤原道長紫式部藤原頼通平清盛
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