日本史人生シミュレーター

藤原頼通

平等院鳳凰堂を建てた摂政・関白
時代:平安時代 / 992年〜1074年(82歳ほど)
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歩んだ道

992年

誕生

藤原道長と、左大臣源雅信の娘倫子との長男として生まれた。道長にはもう一人の妻源明子とその子たちもいたが、正室とされた倫子の子である頼通と弟の教通は、昇進の面で特に重んじられた。姉の彰子はのちに一条天皇の中宮となる。

1003年

元服

内大臣藤原公季に冠をかぶせてもらって元服し、頼通と名のって正五位下に叙された。三年後には従三位に進んで公卿の仲間入りをした。父道長の後ろ盾のもと、若くして異例の早さで出世の道を進んでいった。

1015年

隆姫への思い

具平親王の娘隆姫を妻としていた頼通に、三条天皇は皇女禔子内親王を嫁がせようと申し出た。道長は喜んだが、隆姫を深く愛する頼通はこの縁談を憂い、やがて重い病になったため話は立ち消えになったと『栄花物語』に伝わる。

1017年

摂政となる

甥にあたる後一条天皇の外祖父である父道長から、摂政の地位と藤原氏の氏長者を譲られた。この時はまだ二十代半ばという異例の若さだった。道長は翌年太政大臣も辞したが、前摂政として頼通を後ろから支え、重大なことは頼通も父の判断を仰いだ。

1019年

関白となり刀伊の入寇

摂政から関白に移った。同じ年、刀伊と呼ばれる女真族の海賊が対馬・壱岐や北九州を襲う刀伊の入寇が起き、大宰府の藤原隆家らが撃退した。頼通は有職故実に詳しい藤原実資を師として学び、道長に批判的だった実資も頼通には好意を寄せた。

1027年

父道長の死

父の道長が亡くなった。翌年には関東で平忠常の乱が起こり、鎮めるまでに三年かかって房総の地は荒れ果てた。乱を鎮めた源頼信の一族はこれをきっかけに関東に力をのばし、武士が政治の表舞台に出てくるきっかけの一つとなった。

1036年

後朱雀天皇の関白

後一条天皇が亡くなり、弟の後朱雀天皇が即位しても、頼通は天皇の叔父として関白を続けた。しかし実の娘に恵まれなかったため、妻隆姫の縁で敦康親王の娘嫄子を養女として天皇の后とした。嫄子は皇女を生んだが、まもなく亡くなった。

1045年

尊仁親王の立太子

病に倒れた後朱雀天皇は、藤原氏を母方に持たない尊仁親王を次の東宮にと望んだ。頼通は時期が早いとして反対したが、異母弟の能信が天皇に強く迫り、尊仁は皇太子となった。頼通はその後も尊仁に協力しようとしなかったと伝わる。

1050年

娘寛子の入内

後冷泉天皇に一人娘の寛子を入内させ、のちに皇后とした。男の子が生まれて藤原氏の外戚の地位が続くことを願ったが、望みはかなわなかった。翌年には陸奥で前九年の役が始まり、地方の世の中は不安定になっていった。

1052年

平等院を開く

宇治にあった父道長の別荘を寺に改め、平等院とした。この年は仏の教えが衰える末法の世に入る年と信じられており、極楽浄土への往生を願う浄土教が広まっていた。翌年には阿弥陀如来をまつる阿弥陀堂、いまの平等院鳳凰堂が完成した。

1061年

太政大臣となる

太政大臣に任じられ、貴族として最高の地位にのぼった。父の例にならって翌年にはこれを辞した。頼通は和歌を好み、自ら歌合を開いたり歌集づくりに力を入れたりして、文化の面でも宮廷を率いた。勅撰和歌集には十四首が選ばれている。

1067年

関白を辞す

およそ五十年にわたって務めた関白を辞し、准三宮の待遇を受けた。我が子の師実に跡を継がせたかったが、道長の遺言を理由に姉の彰子に退けられたと伝わり、関白は弟の教通が継いだ。教通が約束どおり師実に譲らないことを、頼通は強く恨んだと伝わる。

1068年

後三条天皇の即位と宇治隠居

後冷泉天皇が亡くなり、頼通が長く冷遇してきた尊仁親王が後三条天皇として即位した。頼通は宇治に退いた。新しい天皇は翌年、延久の荘園整理令を出し、藤原氏の荘園も審査の対象とした。ただし平等院の領地には手をつけられなかったとされる。

1074年

最期

二年前に出家していた頼通は、宇治で生涯を閉じた。同じ年には姉の彰子も亡くなり、弟の教通も翌年に世を去った。摂関政治の全盛を支えた人々が相次いでいなくなり、まもなく白河上皇による院政の時代へと移っていった。

この時代に起きたこと

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