何をした人?
平安時代末期の武士で、保元・平治の乱に勝って武士として初めて太政大臣になりました。娘の徳子を高倉天皇の后とし、孫の安徳天皇を即位させて平氏の全盛期を築きました。大輪田泊を整えて日宋貿易を進め、厳島神社をあつく信仰しました。
| 名前 | 平清盛 |
|---|---|
| 生没年 | 1118年(元永元年) – 1181年(治承5年) |
| 時代 | 平安時代末 |
| 別名 | 平相国、浄海(出家後の名) |
| 主な業績 |
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伊勢平氏の平忠盛の子として生まれた。白河上皇の子だという説もある。父は上皇に仕えて力をのばし、武士でありながら貴族の仲間入りを果たしつつあった。
11歳で貴族の位を授けられた。武士の子としては異例の早さで、人々を驚かせたという。
安芸(広島県)の国司となった。瀬戸内海の守り神をまつる厳島神社をあつく敬うようになり、海の道と宋との貿易に目を向けた。
父・忠盛が亡くなり、35歳で平氏一門をまとめる棟梁となった。
天皇と上皇の争いに藤原氏や武士が加わった保元の乱で、後白河天皇の側について勝った。都の争いを武士の力が決めた戦いだった。
熊野へ参詣している間に源義朝らが兵を挙げたが、急いで都に戻って義朝を破り、武士の第一人者となった。義朝の子・頼朝は、清盛の継母・池禅尼の願いで命を助け、翌年伊豆へ流した。
一門の繁栄を願い、美しく飾った経典「平家納経」を厳島神社に納めた。
武士として初めて、朝廷の最高の位・太政大臣となった(3か月ほどで退いた)。一門も高い位を占め、「平家にあらずんば人にあらず」とまでいわれたと『平家物語』は伝える。
重い病にかかったのをきっかけに出家した。その後は福原(神戸市)の別荘を拠点に政治を動かした。
娘の徳子が高倉天皇の中宮となった。こうして天皇家と深く結びつき、藤原氏と同じやり方で力を強めた。
大輪田泊(今の神戸港)を整え、宋との貿易に力を入れた。宋の銭や品物がたくさん日本に入ってきた。
後白河法皇の近臣たちが平氏を倒そうと話し合っていたことが発覚した。清盛は関わった者たちを厳しく処罰し、法皇との仲は悪くなった。
兵を率いて都に入り、後白河法皇の院政を止めて閉じこめた(治承三年の政変)。平氏が朝廷の政治をにぎった。
孫の安徳天皇を即位させ、都を福原へ移したが、反対が強く半年ほどで京都へ戻した。その年、以仁王の呼びかけで、頼朝をはじめ各地の源氏が兵を挙げた。年末には平重衡が奈良の東大寺や興福寺を焼いた。
高い熱に苦しみ、63歳で亡くなった。『平家物語』は、「頼朝の首を墓の前に供えよ」と言い残したと伝える。4年後、平氏は壇ノ浦で滅びる。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。
A. 平安時代末期の武士で、保元・平治の乱に勝って武士として初めて太政大臣になりました。娘の徳子を高倉天皇の后とし、孫の安徳天皇を即位させて平氏の全盛期を築きました。大輪田泊を整えて日宋貿易を進め、厳島神社をあつく信仰しました。
A. 平安時代末の人物です。1118年(元永元年)に生まれ、1181年(治承5年)に亡くなりました。
A. 中国の宋との貿易です。清盛は大輪田泊(現在の神戸港の一部)を整え、宋銭や陶磁器、書物などを輸入して平氏の大きな財源にしました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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