何をした人?
平安時代初めの僧で、真言宗を開きました。遣唐使とともに唐に渡って密教を学び、帰国後は高野山に金剛峯寺を開き、京都の東寺を任されました。書の名人「三筆」の一人で、庶民のための学校・綜芸種智院も作りました。
| 名前 | 空海 |
|---|---|
| 生没年 | 774年(宝亀5年) – 835年(承和2年) |
| 時代 | 平安時代 |
| 出身地 | 讃岐国(現在の香川県)、善通寺のあたりと伝わる |
| 別名 | 弘法大師、遍照金剛 |
| 主な業績 |
|
讃岐国多度郡(香川県善通寺市)の豪族・佐伯氏の家に生まれた。幼い名は真魚(まお)。
このころ都に出て、学者だったおじ・阿刀大足のもとで漢文や儒学を学んだ。
17歳で都の大学に入り、役人になるための学問を学んだ。しかし出世のための学問に満足できず、やがて大学を離れた。
このころ、一人の僧から記憶力を高める修行法を教わり、阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で修行を重ねた。室戸の洞窟で、明けの明星が口に飛びこんできたと自ら書いている。
儒教・道教・仏教を、物語の登場人物に語らせて比べた『三教指帰』を書き、仏の道に進む決意を示した。
20年学ぶ予定の留学生として遣唐使の船に乗った。船は嵐で南へ流され、上陸を許されなかったが、空海が代わりに書いた見事な嘆願の文で認められたという。年の暮れに都・長安に入った。
長安の青龍寺で密教の第一人者・恵果に出会った。師は「あなたが来るのを待っていた」と喜び、わずか数か月で密教のすべてを授け、「遍照金剛」の名を与えた。その年の暮れ、恵果は亡くなり、空海は弟子を代表して碑文を書いた。
20年の予定をわずか2年で切り上げ、多くの経典や仏具を持ち帰った。予定を破った帰国だったため、しばらく大宰府にとどまって都に入る許しを待った。
ようやく都に入り、京都の高雄山寺を拠点とした。嵯峨天皇と親しくなり、書の名人としても知られ、のちに嵯峨天皇・橘逸勢とともに「三筆」に数えられた。
修行の場を求め、嵯峨天皇から紀伊(和歌山県)の高野山を賜った。山の上に真言密教の道場を開いた。
故郷・讃岐の満濃池が決壊して人々が困ると、工事の責任者として招かれ、わずか数か月で修築を成しとげたと伝わる。
嵯峨天皇から京都の東寺を任され、都での真言宗の中心とした。
身分にかかわらず誰でも学べる学校・綜芸種智院を開いた。貴族の子しか学べなかった時代に、庶民にも学問の門を開こうとした。
高野山で61歳で亡くなった。弟子たちは、空海は今も高野山の奥の院で祈り続けていると信じた。のちに「弘法大師」の名を贈られ、四国の霊場めぐり(お遍路)など、今も多くの人に親しまれている。
A. 平安時代初めの僧で、真言宗を開きました。遣唐使とともに唐に渡って密教を学び、帰国後は高野山に金剛峯寺を開き、京都の東寺を任されました。書の名人「三筆」の一人で、庶民のための学校・綜芸種智院も作りました。
A. 平安時代の人物です。774年(宝亀5年)に生まれ、835年(承和2年)に亡くなりました。
A. 空海は讃岐国(現在の香川県)、善通寺のあたりと伝わるの生まれです。
A. 亡くなったあとの921年に、醍醐天皇から「弘法大師」という称号(諡号)を贈られたためです。「弘法にも筆の誤り」ということわざでも知られます。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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