何をした人?
645年に中臣鎌足と協力して蘇我入鹿を倒し(乙巳の変)、天皇を中心とする国づくり「大化の改新」を進めた皇子です。のちに近江大津宮で即位して天智天皇となり、初めての全国的な戸籍「庚午年籍」を作りました。
| 名前 | 中大兄皇子(天智天皇) |
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| 生没年 | 626年(推古天皇34年) – 671年(天智天皇10年) |
| 時代 | 飛鳥時代 |
| 別名 | 天智天皇、葛城皇子 |
| 主な業績 |
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舒明天皇と宝皇女(のちの皇極・斉明天皇)の皇子として生まれた。宮廷では蘇我氏が大きな力をふるっていた。
父・舒明天皇が亡くなり、15歳の皇子は葬儀で父をしのぶ言葉を述べた。翌年、母が皇極天皇として即位した。
蘇我入鹿が聖徳太子の子・山背大兄王の一族を攻め滅ぼした。天皇家をしのぐ蘇我氏のふるまいに、皇子は国の行く末を深く憂えたと伝えられる。
法興寺の蹴鞠の会で脱げた靴を、中臣鎌足が拾って差し出した。これをきっかけに二人は親しくなり、南淵請安のもとへ学びに通う道すがら、国を変える計画を語り合ったという。
宮中の儀式の場で蘇我入鹿を討ち、父の蝦夷も自ら命を絶った。おじの孝徳天皇が即位し、皇子は皇太子として政治の中心に立った。都は難波に移され、大化の改新が始まった。
土地と人民を国のものとする公地公民、地方の区画、戸籍や税の仕組みを整える方針が示された。天皇を中心とする国づくりへの大きな一歩だった。
孝徳天皇と考えが合わなくなり、母や弟、皇后らを連れて難波から飛鳥へ戻った。天皇は難波にひとり残され、翌年亡くなった。
日本で初めての水時計(漏刻)をつくったと『日本書紀』は伝える。人々に時刻を知らせる新しい仕組みだった。
母の斉明天皇が筑紫で亡くなったあと、即位しないまま政治を行った。百済を助けるため朝鮮半島に大軍を送ったが、白村江で唐と新羅の連合軍に大敗し、多くの兵が帰らなかった。
唐や新羅が攻めてくることを恐れ、九州に水城や山城を築き、防人やのろしの仕組みを置いた。
都を近江(滋賀県)の大津に移した。人々の中には都を移すことを喜ばない者もいたと伝わる。
ついに即位して天智天皇となった。翌年、長年の盟友・鎌足が亡くなった。670年には全国の戸籍・庚午年籍をつくった。
息子の大友皇子を太政大臣とし、弟の大海人皇子は出家して吉野へ去った。その年の暮れ、45歳で亡くなった。翌年、後継ぎをめぐって壬申の乱が起こる。
A. 645年に中臣鎌足と協力して蘇我入鹿を倒し(乙巳の変)、天皇を中心とする国づくり「大化の改新」を進めた皇子です。のちに近江大津宮で即位して天智天皇となり、初めての全国的な戸籍「庚午年籍」を作りました。
A. 飛鳥時代の人物です。626年(推古天皇34年)に生まれ、671年(天智天皇10年)に亡くなりました。
A. 645年の乙巳の変のあとに始まった政治改革です。豪族が土地と人々を持つしくみを改め、天皇を中心とする国づくりをめざしました。改新の詔の内容がどこまで当時のものかには諸説あります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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