何をした人?
推古天皇の時代に、おばの天皇を助けて政治を行った皇族です。蘇我馬子と協力して冠位十二階や十七条の憲法を定め、遣隋使を送り、法隆寺を建てるなど仏教を広めたと伝わります(太子の役割の大きさには諸説あります)。
| 名前 | 聖徳太子 |
|---|---|
| 生没年 | 574年(敏達天皇3年) – 622年(推古天皇30年) |
| 時代 | 飛鳥時代 |
| 別名 | 厩戸王(うまやどのおう)、厩戸皇子 |
| 主な業績 |
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用明天皇の皇子として生まれた。母は穴穂部間人皇女。名は厩戸皇子(うまやとのみこ)といい、母が宮中を歩いていて馬小屋の前で産気づいたという言い伝えがある。
仏教を受け入れる蘇我馬子と、反対する物部守屋が戦った。13歳の皇子は蘇我の軍に加わり、木で四天王の像を彫って勝利を祈ったと伝わる。勝ったあと、約束どおり四天王寺を建てたという。
おばの推古天皇が即位すると、皇太子として政治を助ける立場(摂政)についた。蘇我馬子と力を合わせて国づくりを進めた。一度に十人の訴えを聞き分けたという伝説も、このころの賢さを伝えるものだ。
天皇は仏教を盛んにせよという詔を出し、豪族たちは競って寺を建てた。皇子はその先頭に立って仏の教えを広めた。
高句麗から来た僧・慧慈を師とし、仏教や大陸の学問を深く学んだ。百済の僧・慧聡も来日し、ともに仏教を広める柱となった。
奈良の斑鳩の地に宮を建て始め、のちにここに移り住んだ。飛鳥から少し離れたこの地が、皇子の活動の拠点となった。
家柄ではなく、才能や手柄によって役人を取り立てる冠位十二階を定めた。冠の色で位を分け、豪族の力にたよらない国の仕組みをめざした。
「和をもって貴しとなす」で始まる十七条の憲法をつくり、役人の心構えを示した。争わずに話し合うこと、仏教を敬うこと、天皇の命令に従うことなどが説かれている。
小野妹子を隋に送った。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国書に、隋の皇帝・煬帝は不機嫌になったと伝わる。同じころ、斑鳩に法隆寺を建てたという。
妹子は隋の使者・裴世清を連れて帰国した。その年ふたたび妹子を隋に送り、高向玄理や僧旻らの留学生も同行させた。彼らが持ち帰った知識は、のちの大化の改新を支えることになる。
仏教の三つの経典の解説書『三経義疏』をまとめたと伝わる(太子が自ら書いたかどうかは諸説あり)。
蘇我馬子とともに、歴史書『天皇記』『国記』をまとめた。国の成り立ちを記録に残そうとする、初めての試みだった。
母に続いて妃も病に倒れ、その翌日、皇子も48歳で亡くなった。人々は親を失ったように嘆いたという。妃の橘大郎女は「世間は虚仮、唯仏のみ是れ真」という皇子の言葉を刺繍に残した(天寿国繍帳)。近年は「厩戸王」と呼ぶこともあり、業績には諸説ある。
A. 推古天皇の時代に、おばの天皇を助けて政治を行った皇族です。蘇我馬子と協力して冠位十二階や十七条の憲法を定め、遣隋使を送り、法隆寺を建てるなど仏教を広めたと伝わります(太子の役割の大きさには諸説あります)。
A. 飛鳥時代の人物です。574年(敏達天皇3年)に生まれ、622年(推古天皇30年)に亡くなりました。
A. 役人の心がまえを示した17の決まりで、604年に定められたと『日本書紀』に記されています。「和をもって貴しとなす」で始まり、仏教を敬うことや天皇の命令に従うことを説いています。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
この人の一生をたどる(自動再生)教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。