蘇我稲目の子として生まれたと伝わる。生年は扶桑略記の享年などから551年ごろとされるが諸説あり、確実な記録は残っていない。父は朝廷で大臣をつとめ、仏教の受容を進めた有力豪族だった。
敏達天皇のとき大臣となり、父のあとをついで蘇我氏の中心となった。妹の堅塩媛は欽明天皇の妃で、のちの推古天皇の母にあたる。外戚として王家と深く結びつき、政治の実権を握っていった。
百済から伝わった仏教を厚く信じ、寺を建てて広めた。一方、物部守屋らは伝統の神を重んじ、疫病の流行を仏教のせいにして仏像や寺を壊した。信仰と政治が重なり、蘇我と物部の対立は深まっていった。
用明天皇のあと、皇位や信仰をめぐり物部守屋と決戦した。厩戸皇子(聖徳太子)らとともに守屋を破り、物部氏の勢力をたおした。こののち蘇我氏は朝廷でほとんど並ぶもののない力を持つことになる。
崇峻天皇が馬子と対立し、天皇は殺害されたと日本書紀は伝える。馬子は推古天皇を立て、厩戸皇子を摂政としてともに政治を進めた。この事件のいきさつには諸説あり、のちの編纂物の記述にも注意が必要である。
推古朝で冠位十二階が定められた。氏や姓だけでなく、個人の能力や功績で位を与えるしくみで、馬子と厩戸皇子が中心となって進めたとされる。豪族の力を抑え、朝廷の仕組みを整える一歩となった。
厩戸皇子が十七条の憲法を定めたと伝えられる。君臣の秩序や仏教・儒教の教えを示し、役人の心得を説いた。馬子は大臣としてこの改革を支え、飛鳥の政治を動かした中心の一人だった。
小野妹子らを隋に遣わす遣隋使が送られた。強大な統一王朝と交わり、制度や文化を学ぶねらいがあった。馬子は外交の舵取りにも関わり、東アジアの激動の中で日本の立場を保とうとした。
飛鳥の邸に池を掘り島を浮かべたと伝わり、嶋大臣と呼ばれた。飛鳥寺(法興寺)など仏教寺院の建立も進め、信仰と権威の象徴とした。豪族の私的な力と公の政治が重なる時代の姿をよく示す。
推古天皇34年、馬子は亡くなった。墓は奈良県明日香村の石舞台古墳とみる説が有力だが、確定はしていない。子の蝦夷が大臣を継ぎ、孫の入鹿とともに権勢を強めるが、のち乙巳の変で蘇我本宗家は滅びる。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。