中大兄皇子(のちの天智天皇)の娘として生まれた。名は鸕野讃良皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘。この年は乙巳の変で蘇我入鹿が倒され、父の中大兄皇子が中心となって大化の改新が始まった、大きな変化の年だった。
母方の祖父の石川麻呂が謀反の疑いをかけられて命を落とし、母の遠智娘も悲しみのあまりまもなく亡くなったと伝わる。幼い皇女は、宮廷の権力争いの厳しさを、身近な人を失うことで知ることになった。
父の弟で叔父にあたる大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚した。姉の大田皇女も大海人皇子の妃となった。当時の皇族の間では、こうした近い親族どうしの結婚は珍しくなかった。皇女はやがて夫の最も信頼する相談相手となっていく。
百済を助けるために朝廷が九州へ軍を進めたとき、夫とともに九州へ向かい、筑紫の娜大津(福岡市)で草壁皇子を産んだ。翌年、日本の軍は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した。草壁は、皇女がその将来に生涯をかけた一人息子だった。
病に倒れた天智天皇が大海人皇子に位をゆずろうとしたが、大海人皇子は危険を感じて辞退し、出家して吉野へ移った。皇女は夫とともに吉野へ向かった。都を離れたこの決断が、翌年の大きな戦いにつながっていく。
天智天皇が亡くなると、大海人皇子は天智天皇の子の大友皇子と皇位をめぐって戦った(壬申の乱)。皇女は夫とともに吉野を出て東国へ向かい、夫を支えた。大海人皇子は勝利して翌年に天武天皇として即位し、皇女は皇后となった。
天武天皇は天皇中心の国づくりを進め、この年、国の決まりである律令(飛鳥浄御原令)づくりと、歴史書の編さんを命じ、草壁皇子を皇太子に立てた。皇后は天皇のそばで政治を助け、その考えを最もよく知る一人となった。
天武天皇が亡くなり、皇后が天皇に代わって政治を行った。まもなく天武天皇の子で、人々の人気も高かった大津皇子が謀反の疑いで命を落とした。草壁皇子の地位を守るための出来事だったとも考えられているが、くわしいことには諸説ある。
即位を待っていた草壁皇子が、まだ若くして病のため亡くなった。皇后は深い悲しみの中にあったが、この年、天武天皇が始めた飛鳥浄御原令を施行し、国の決まりを整える仕事を続けた。草壁の幼い子・軽皇子の成長に望みを託した。
皇后は自ら即位して持統天皇となった。全国の人々を調べた戸籍(庚寅年籍)をつくり、田を分け与える制度や税のしくみを整えた。高市皇子を太政大臣として重く用い、天武天皇が目指した国づくりを受けついで進めた。
日本で初めての本格的な都である藤原京へ都を移した。中国の都にならって道を碁盤の目のように通した大きな都で、天皇中心の国の姿を示すものだった。『万葉集』には、香具山をよんだ持統天皇の「春過ぎて夏来るらし白たへの衣ほしたり天の香具山」の歌が残る。
孫の軽皇子に位をゆずり、文武天皇とした。持統天皇は日本で初めて太上天皇(上皇)となり、若い天皇のうしろで政治を支え続けた。子の草壁皇子に託した夢を、孫によって果たした形となった。
藤原不比等らによって大宝律令が完成した。刑罰の決まり(律)と政治のしくみ(令)がそろった本格的な法典で、天武天皇と持統天皇が進めてきた国づくりが、ここで一つの形となった。日本という国の土台がつくられた時代だった。
大宝2年12月(今の暦では703年のはじめ)、亡くなった。天皇として初めて火葬され、夫の天武天皇の陵に一緒に葬られた。夫とともに天皇中心の国づくりを進め、子と孫の未来を守ろうとした生涯だった。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。