神をまつる仕事を受け継ぐ中臣氏の家に生まれた。生まれた土地は大和(奈良県)の藤原とも、常陸(茨城県)ともいわれる(諸説あり)。
このころ、唐から帰った僧・旻の塾などで中国の学問を学んだ。のちの記録には、蘇我入鹿と並ぶ秀才だといわれたとある。神事の家に生まれながら、政治の道を志すようになった。
蘇我氏が天皇をしのぐ力をふるうのを憂い、ともに立ち上がる皇族を探していた。法興寺での蹴鞠の会で中大兄皇子の脱げた靴を拾って差し出し、二人は心を通わせたという。その後、南淵請安のもとへ通う道で、ひそかに計画を語り合った。
宮中の儀式の場で、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を倒した。父の蝦夷も自ら命を絶ち、蘇我本家は滅んだ。新しく即位した孝徳天皇のもとで内臣となり、大化の改新を支えた。
土地と人民を国のものとする公地公民などを示した改新の詔が出された。鎌足は皇子の右腕として、天皇中心の国づくりを支え続けた。
百済を助けるために送った軍が、白村江で唐と新羅の連合軍に大敗した。鎌足は皇子とともに、国を守るための備えを急いだ。
盟友の中大兄皇子が近江大津宮で即位し、天智天皇となった。鎌足は二十年以上にわたって、そのそばで国の改革を支えてきた。
病に倒れると、天皇が自ら見舞いに訪れた。亡くなる直前に最高の冠位・大織冠と内大臣の位、そして「藤原」の姓を授けられ、55歳で亡くなった。子の不比等をはじめ、子孫の藤原氏はこののち長く朝廷の中心で栄えた。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。