何をした人?
鎌倉幕府を開いた武士です。平治の乱のあと伊豆に流されましたが、1180年に平氏打倒の兵を挙げ、弟の義経らを送って1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしました。守護・地頭を置いて武士による政治のしくみを作り、1192年に征夷大将軍に任じられました。
| 名前 | 源頼朝 |
|---|---|
| 生没年 | 1147年(久安3年) – 1199年(建久10年) |
| 時代 | 平安末〜鎌倉時代 |
| 出身地 | 尾張国熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区)と伝わる |
| 別名 | 鎌倉殿、右大将 |
| 主な業績 |
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源氏の棟梁・源義朝の三男として生まれた。母は熱田神宮の大宮司の娘で、母の身分が高かったため、兄たちをこえて義朝の跡継ぎとして育てられた。
12歳で初めて戦に出た。父・義朝は平清盛と戦って敗れ、東国へ逃げる途中で命を落とした。頼朝は逃げる途中で父たちとはぐれ、平氏に捕らえられた。
処刑されるはずだったが、清盛の継母・池禅尼が命ごいをしたため助けられ、13歳で伊豆へ流された。それから約20年、監視されながら、父の供養とお経を読む日々を送ったという。
このころ、伊豆の豪族・北条時政の娘、政子と結ばれた。平氏をはばかる時政は反対したが、政子は夜の雨の中を頼朝のもとへ走ったと伝わる。北条氏は頼朝の大きな支えとなった。
以仁王の呼びかけに応えて兵を挙げた。石橋山の戦いで大敗し、船で安房(千葉県)へ逃れたが、関東の武士たちを味方につけて鎌倉に入った。富士川では平氏軍が戦わずに退き、黄瀬川で弟の義経と涙の対面をした。
鎌倉に侍所を置き、家来となった武士(御家人)をまとめた。すぐに京都へ攻め上らず、まず関東の守りを固めることを選んだ。
源義仲が平氏を都から追い出したが、都での評判は悪かった。後白河法皇は頼朝に東国の支配を認めた。頼朝は弟の範頼と義経を都へ送った。
公文所(のちの政所)と問注所を置き、政治と裁判のしくみを整えた。京都から大江広元ら学識ある役人をまねいた。
義経らが壇ノ浦で平氏をほろぼした。しかし頼朝の許しなく官位を受けた義経と対立した。義経追討を名目に、国ごとに守護、荘園などに地頭を置くことを朝廷に認めさせた。この年を鎌倉幕府の成立とする考えが多い。
義経をかくまった奥州藤原氏の泰衡が義経を攻めて自害に追いこんだが、頼朝は自ら大軍を率いて奥州藤原氏をほろぼした。これで全国に頼朝に逆らう大きな力はなくなった。
大軍を率いて京都に上り、後白河法皇と初めて会った。権大納言・右近衛大将に任じられたが、すぐに辞めて鎌倉に戻った。
後白河法皇が亡くなった後、征夷大将軍に任じられた。同じ年、次男の実朝が生まれた。将軍と御家人は、土地を守り与える「御恩」と、戦いで働く「奉公」で結ばれた。
平氏に焼かれた奈良の東大寺の大仏殿が再建され、政子とともに供養に参列した。
長女の大姫が病で亡くなった。大姫は幼いころの許婚・源義高(義仲の子)を父に討たれてから、心を病んでいたと伝わる。娘を天皇のきさきにする計画も実らなかった。
前の年の終わりに、橋の完成の式から帰る途中で馬から落ち、それがもとで亡くなったと伝わる(原因は諸説あり)。幕府の政治は、やがて妻の政子と北条氏が支えていくことになる。
A. 鎌倉幕府を開いた武士です。平治の乱のあと伊豆に流されましたが、1180年に平氏打倒の兵を挙げ、弟の義経らを送って1185年の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしました。守護・地頭を置いて武士による政治のしくみを作り、1192年に征夷大将軍に任じられました。
A. 平安末〜鎌倉時代の人物です。1147年(久安3年)に生まれ、1199年(建久10年)に亡くなりました。
A. 源頼朝は尾張国熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区)と伝わるの生まれです。
A. 以前は征夷大将軍になった1192年とされましたが、いまは守護・地頭を置いた1185年を重く見る考えが有力です。1180年や1183年とする説もあり、諸説あります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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