何をした人?
室町幕府の10代将軍です。足利義視の子で、応仁の乱のあと美濃で育ちました。1490年に将軍となりましたが、1493年の明応の政変で細川政元に地位を追われました。越中や周防を転々としたのち、大内義興の力を借りて1508年に将軍に返り咲き、二度将軍となった人物として知られます。
| 名前 | 足利義稙 |
|---|---|
| 生没年 | 1466年(文正元年) – 1523年(大永3年) |
| 時代 | 室町時代 |
| 別名 | 足利義材・足利義尹 |
| 主な業績 |
|
8代将軍足利義政の弟で、跡継ぎ候補とされていた足利義視の子として生まれた。初めの名は義材(よしき)。生まれた翌年には応仁の乱が始まり、父の義視は西軍の側に立つことになったため、義稙は幼いころから将軍家の争いの中で育つことになった。
11年続いた応仁の乱がようやく収まると、父の義視とともに美濃国(岐阜県)の守護・土岐成頼を頼って移り住んだ。京都を離れた美濃での暮らしは十年以上に及んだ。将軍家の一員でありながら、地方の守護大名の保護を受けて暮らす日々だった。
前の年に9代将軍の足利義尚が近江の陣中で亡くなり、この年には義政も世を去った。義尚の母の日野富子が義稙を後押ししたこともあって、義稙は京都に戻り10代将軍となった。父の義視が後見役となったが、義視も翌年に亡くなった。
将軍の力を取り戻そうと、義尚の遺志を継いで、寺社や貴族の土地を奪っていた近江の六角高頼を討つ兵を出した。自ら近江に出陣し、高頼を甲賀の山中へ退かせた。しかし管領の細川政元はこうした出陣に消極的で、二人の間には溝が生まれていった。
河内の畠山基家を討つため出陣していた留守に、細川政元が兵を挙げ、義政の甥にあたる足利義澄を新しい将軍に立てた。これを明応の政変という。義稙は捕らえられて京都で閉じこめられたが、やがて脱出し、越中(富山県)の放生津へ逃れた。
越中では、畠山氏の家臣で守護代の神保長誠に迎えられ、放生津に将軍の政庁を置いた。北陸や各地の大名に手紙を送って味方を集め、京都の幕府に対抗しようとした。このため義稙は「越中公方」とも呼ばれ、将軍が二人並び立つような状態となった。
名を義尹(よしただ)と改め、越前の朝倉氏のもとを経て近江から京都をめざしたが、細川方に敗れた。その後、西国で大きな力を持つ周防(山口県)の大内義興を頼って山口へ移った。山口では十年近く暮らし、京都へ戻る機会をうかがった。
前の年に細川政元が家臣に討たれ、細川家の中で跡継ぎ争いが起きた。この機会に大内義興の大軍とともに京都へ上り、細川高国の協力も得て、将軍の座に返り咲いた。将軍の足利義澄は近江へ逃れ、義稙は十五年ぶりに将軍として京都に戻った。
義澄を支持する細川澄元の軍が京都に迫ったため、義稙はいったん丹波へ退いた。しかし大内義興・細川高国の軍とともに反撃し、京都の船岡山の戦いで澄元方を破った。この少し前に義澄が近江で病のため亡くなっており、義稙の地位はひとまず安定した。
名を義稙と改めた。この年、政治を思うように進められないことに不満を持ち、大内義興や細川高国と対立して京都をひそかに出て近江の甲賀へ移った。二人が謝って迎えに来たため戻ったが、将軍が実力者に支えられなければ立てない状態は変わらなかった。
大内義興が本国の周防へ帰ったあと、細川高国との対立が深まった。義稙は高国と争っていた細川澄元の側に近づき、ついに京都を出て淡路へ移った。高国は義澄の子の足利義晴を新しい将軍に立て、義稙は二度目の将軍の座も失った。
淡路からさらに阿波(徳島県)の撫養へ移り、京都へ戻る機会を待ちながら、その地で病のため亡くなった。二度将軍となり、各地を転々としたその生涯から「流れ公方」「島公方」とも呼ばれる。将軍が大名の力に左右される戦国時代の始まりを映す人物とされる。
A. 室町幕府の10代将軍です。足利義視の子で、応仁の乱のあと美濃で育ちました。1490年に将軍となりましたが、1493年の明応の政変で細川政元に地位を追われました。越中や周防を転々としたのち、大内義興の力を借りて1508年に将軍に返り咲き、二度将軍となった人物として知られます。
A. 室町時代の人物です。1466年(文正元年)に生まれ、1523年(大永3年)に亡くなりました。
A. 1493年、将軍の義稙が河内へ出陣している間に、管領の細川政元が兵を挙げ、足利義澄を新しい将軍に立てた出来事です。家臣が将軍を交代させたこの政変は、戦国時代の始まりの一つとされることもあります(諸説あり)。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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