関東の扇谷上杉家の家宰(家の政治をまとめる重臣)太田資清の子として生まれた。名は資長。幼いころから学問にすぐれ、鎌倉の寺で学んだと伝わる。
鎌倉公方と関東管領の上杉氏が争う享徳の乱が始まった。関東は約30年にわたる戦乱の時代に入り、若い資長も父とともに戦いに加わった。
武蔵の江戸に城を築いた。海と川に面した守りやすく交通の便のよい場所で、のちに徳川家康が本拠とし、今の東京の中心となった。
江戸城で歌合を開いた。武将でありながら和歌にすぐれ、京都の文化人とも交流した。
主家の山内上杉家の家臣・長尾景春が反乱を起こした。道灌は関東各地を駆けめぐって30回以上の戦いに勝ち、乱をしずめた。足軽を使った新しい戦い方も取り入れたとされる。
景春に味方した豊島氏を江古田原の戦いで破った。今の東京の多くの地域が道灌の支配下に入った。
このころ、雨具を借りようとした農家の娘から山吹の花を差し出され、その意味(古い和歌)が分からなかったことを恥じて和歌を学んだ、という話が伝わる(江戸時代に広まった伝説)。
道灌の名声が高まるのをおそれた主君・上杉定正に、相模の糟屋の館にまねかれ、風呂から出たところを討たれ命を落とした。「当方滅亡(扇谷家は滅びる)」と叫んだと伝わる。その言葉どおり、扇谷上杉家はやがて力を失った。
雪舟宗祇朝倉孝景(敏景)細川勝元足利義政足利義視日野富子畠山政長
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。