将軍家と代々縁の深い公家・日野重政の娘として生まれた。
8代将軍・足利義政と結婚した。
初めての子を産んだが、その日のうちに亡くなった。義政のそばに仕えていた女性・今参局がのろったためだとうわさされ、今参局は流罪となった。
男の子・義尚を産んだ。前の年に義政は弟の義視を跡継ぎに決めていたため、わが子を将軍にしたい富子との間で争いの火種となった。
跡継ぎ争いに、有力な守護大名たちの争いが重なり、応仁の乱が始まった。富子は山名宗全を頼ったとも伝わる(諸説あり)。京都は焼け野原となった。
義尚が9代将軍となった。幼い将軍に代わって、富子は政治にも大きな力をふるうようになった。
戦乱の中、大名たちにお金を貸したり、米の売り買いをしたりして大きな財産をたくわえた。京都の入口に関所を置いて通行料を集めたため、人々の反発を買った。乱を終わらせるために大名にお金を出したともいわれる。
京都の関所に反発した人々が一揆を起こし、関所は壊された。富子は「悪女」とも言われたが、苦しい幕府の財政を支えたのも事実だった。
将軍の義尚が、近江への出陣中に若くして亡くなった。翌年には夫の義政も亡くなった。富子は、義視の子・義材を次の将軍に支えた。
管領の細川政元が将軍・義材を追い出し、別の将軍を立てた(明応の政変)。富子もこれに同意したとされる。将軍が家臣に代えられるほど、幕府の力は弱まっていた。
京都で亡くなった。夫と子を失いながらも、乱世の幕府を財力で支え続けた一生だった。
朝倉孝景(敏景)細川勝元太田道灌足利義政足利義視畠山政長細川政元大内義興
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。