何をした人?
室町幕府の8代将軍です。あとつぎ問題などをめぐる有力守護の争いから応仁の乱(1467〜1477年)が起こり、幕府の力は大きく衰えました。一方で京都の東山に銀閣(慈照寺)を建て、書院造や茶の湯、生け花などの東山文化を育てました。
| 名前 | 足利義政 |
|---|---|
| 生没年 | 1436年(永享8年) – 1490年(延徳2年) |
| 時代 | 室町時代 |
| 出身地 | 京(現在の京都市) |
| 別名 | 東山殿、義成(はじめの名) |
| 主な業績 |
|
6代将軍・足利義教の子として生まれた。父は厳しい政治で恐れられた将軍だった。
父の義教が、守護大名の赤松満祐に殺された(嘉吉の変)。兄の義勝が7代将軍になったが、2年後に幼くして亡くなり、義政が跡継ぎとなった。
13歳で8代将軍となった。しかし政治の実権は、母の日野重子や側近、有力な守護大名たちがにぎっていた。
日野富子と結婚した。富子はのちに政治や財政に強い力をふるうようになる。
大飢饉で京都の鴨川が死者であふれたと伝わる。それでも義政は御所の建て直しなどに力を入れ、天皇から注意を受けたという。
子どもがいなかったため、出家していた弟の義視を還俗させて跡継ぎに決めた。ところが翌年、富子が男の子(義尚)を産んだ。
将軍の跡継ぎ争いに、畠山氏・斯波氏の家督争い、細川勝元と山名宗全の対立が重なり、応仁の乱が始まった。京都は11年にわたって戦場となり、多くの寺や屋敷が焼けた。義政は争いをしずめることができなかった。
細川勝元と山名宗全が相次いで亡くなったこの年、8歳の義尚に将軍をゆずった。
大名たちが国元へ引き上げ、応仁の乱はようやく終わった。しかし幕府の力は弱まり、各地で下の者が上の者に取って代わる下剋上の世となっていく。
京都の東山に山荘(東山殿)を建て始め、そこで暮らした。政治から離れ、茶の湯や生け花、庭づくり、水墨画などを楽しんだ。庭師の善阿弥や絵師の狩野正信らが活躍した。
出家した。山荘の東求堂の一室「同仁斎」は、たたみ・違い棚・付書院をそなえた書院造の部屋で、今の和室のもとになった。
将軍の義尚が、近江への出陣中に若くして亡くなった。同じ年、山荘の観音殿(のちの銀閣)が建ち上がった。わびしく落ち着いた美しさをもつ東山文化を代表する建物となった。
銀閣の完成を見ることなく、54歳で亡くなった。政治では乱を防げなかったが、東山文化は今の日本の暮らしや文化に大きな影響を残した。
A. 室町幕府の8代将軍です。あとつぎ問題などをめぐる有力守護の争いから応仁の乱(1467〜1477年)が起こり、幕府の力は大きく衰えました。一方で京都の東山に銀閣(慈照寺)を建て、書院造や茶の湯、生け花などの東山文化を育てました。
A. 室町時代の人物です。1436年(永享8年)に生まれ、1490年(延徳2年)に亡くなりました。
A. 足利義政は京(現在の京都市)の生まれです。
A. 1467年から約11年続いた大きな戦乱です。将軍家や管領家のあとつぎ争いに、細川勝元と山名宗全の対立が結びつき、京都の多くが焼けました。この乱のあと戦国時代へ向かったとされます。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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