室町幕府の六代将軍・足利義教の十男として生まれた。のちに八代将軍となる義政は兄にあたる。公家の正親町三条実雅の猶子となり、将軍家の男子の多くと同じく、幼いうちから仏門に入ることが決められていた。
嘉吉の乱が起こり、父の義教が播磨の守護・赤松満祐の屋敷に招かれた席で討たれた。将軍が家臣に命を奪われるという前代未聞の出来事で、幕府の権威は大きく揺らいだ。まだ幼かった義視は父の記憶をほとんど持たないまま育つことになった。
仏門に入り、浄土寺の門跡となって義尋と名乗った。将軍家の弟として寺院の頂点に立つ道を歩み、そのまま僧として一生を終えるはずであった。兄の義政がやがて将軍となり、政治の世界は兄に任せた静かな日々が続いた。
跡継ぎの男子がいなかった兄の義政に強く請われ、還俗して義視と名乗った。迷う義視に対し、義政は今後男子が生まれても僧にすると誓う文書を示し、管領の細川勝元が後見人となったという。今出川殿とよばれ、次の将軍と目された。
義政の妻・日野富子の妹である良子と結婚し、将軍家との結びつきを強めた。ところがこの年の暮れ、富子が男子の義尚を産んだ。我が子を将軍にしたいと願う富子の思いもあって、跡継ぎとされていた義視の立場は一気に不安定になった。
義政の側近である伊勢貞親が、義視に謀反の疑いがあると義政に訴えた。身の危険を感じた義視は細川勝元の屋敷に逃れ、勝元や山名宗全ら有力守護が義視をかばった。その結果、逆に貞親が都を追われ、義視の疑いは晴れた。
細川勝元と山名宗全の対立が爆発して応仁の乱が始まると、義視は将軍の旗を与えられ、勝元の東軍の総大将として戦いに加わった。しかし周囲の思惑に振り回されて身の置き所を失い、夏には伊勢の北畠氏のもとへ一時身を寄せた。
義政に呼び戻されて京都に帰ったが、富子の兄・日野勝光らを遠ざけるよう求めて義政の怒りを買った。身の危険を感じた義視は比叡山に逃れ、やがて敵方であった西軍に迎えられた。西軍は義視を将軍のように立て、「西幕府」とも呼ばれる体制を作った。
西軍の山名宗全と東軍の細川勝元がともに世を去り、この年の暮れには甥の義尚が九代将軍に就いた。将軍の座を約束されて還俗した義視にとっては、その望みが遠のいたことを意味した。それでも西軍は義視を立て続け、京都での戦いはだらだらと続いた。
西軍の大名たちが次々と国元へ引き上げ、十一年に及んだ応仁の乱はようやく終わった。義視は息子の義材を連れ、美濃の実力者である斎藤妙椿を頼って都を離れた。荒れ果てた京都をあとに、親子は長い地方での暮らしに入った。
美濃に身を置いたまま、兄の義政と正式に和解した。かつて将軍の座をめぐって争いの中心に立たされた兄弟は、ようやく対立に区切りをつけた。義視はその後も美濃で暮らし、息子の義材の成長を見守りながら、再び都に戻る機会を待った。
将軍の義尚が近江の陣中で若くして亡くなり、跡継ぎがいなかったため、義材が次の将軍の候補となった。義視は義材を連れて十年あまりぶりに京都へ戻り、まもなく出家して道存と名乗った。富子も義材を後継に推し、かつての対立は和らいだ。
兄の義政が亡くなり、この年の夏、息子の義材が十代将軍に就いた。義視は准三宮という高い待遇を受け、将軍の父として政治の後見にあたった。若いころ約束されながら果たせなかった将軍家の主導権を、息子を通じてようやく手にした形であった。
年が明けてまもなく、京都の三条の御所で病のため亡くなった。奇しくも兄の義政と同じ月日の死であったと伝わる。のちに太政大臣の位が贈られた。周囲の争いに翻弄され続けた生涯は、応仁の乱という時代の混乱を象徴するものでもあった。
朝倉孝景(敏景)細川勝元太田道灌足利義政日野富子畠山政長細川政元大内義興
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