何をした人?
室町幕府の第9代将軍です。8代将軍足利義政と日野富子の子として生まれ、叔父の足利義視との後継ぎ争いは応仁の乱の原因の一つとなりました。8歳で将軍となり、成長後は近江の六角高頼を討つため自ら出陣しましたが、1489年に陣中で病に倒れ、若くして亡くなりました。和歌や学問を好んだことでも知られます。
| 名前 | 足利義尚 |
|---|---|
| 生没年 | 1465年(寛正6年) – 1489年(長享3年) |
| 時代 | 室町時代 |
| 出身地 | 山城国京都 |
| 別名 | 足利義煕(のちの名) |
| 主な業績 |
|
8代将軍足利義政と正室日野富子の間に生まれた。子のなかった義政はすでに弟の義視を後継ぎと決めていたため、義尚の誕生によって、次の将軍を義視とするか義尚とするかという難しい問題が生まれることになった。
義尚の養育係で幕府の政所執事だった伊勢貞親は、義視に謀反の疑いがあると義政に訴え、義視を退けようとした。しかし義視が細川勝元を頼り、勝元と山名宗全がそろって抗議したため、逆に貞親が京都を追われた。
畠山氏の家督争いなどに細川勝元と山名宗全の対立が結びつき、応仁の乱が始まった。義尚を後押しする富子が宗全を頼ったことも原因の一つとされてきたが、近年は将軍家の跡継ぎ問題の影響は小さかったとする見方もある(諸説あり)。
義政が伊勢貞親を政治の場に呼び戻すと、これに反発した義視は西軍に身を寄せた。こうして義視が将軍になる道は閉ざされ、まだ幼い義尚が将軍家の跡継ぎとしての立場を固めることになった。
この年、西軍の山名宗全と東軍の細川勝元が相次いで亡くなった。12月、義尚は元服して父から将軍職を譲られ、9代将軍となった。ただしまだ幼かったため、政治の実際は義政と富子、富子の兄の日野勝光が担った。
11年にわたった応仁の乱は、はっきりした勝ち負けがないまま終わり、西軍の大名たちはそれぞれの国へ引き上げた。京都の町は大きく焼け、幕府の力も衰えた。各地では家臣が主君をしのぐ下剋上の動きが強まっていった。
将軍として文書に花押をすえる儀式などを行い、自ら政治を始めた。しかし父の義政はなかなか権限を手放さず、親子の間には不和が生まれた。義尚は不満のあまり、自分のまげを切って抗議の意志を示したこともあると伝わる。
学問に熱心で、関白も務めた学者の一条兼良は、義尚のために政治の心得をまとめた『樵談治要』を書いて贈った。義尚は和歌を特に好み、歌会を開いたり歌集を編もうとしたりして、文化を愛する将軍としても知られた。
義政は東山山荘に移って政治から身を引くと表明したが、実際には一部の権限を握り続けた。母の富子とも折り合いが悪く、義尚は幕府の役人伊勢貞宗の屋敷に移って暮らすなど、将軍家の中の不和は続いたと伝わる。
近江の守護六角高頼が公家や寺社の領地を奪ったため、義尚は将軍の力を示そうと自ら大軍を率いて出陣した。高頼が山中に逃れて抵抗を続けたため、義尚は鈎(滋賀県栗東市)に陣を構え、ここで政治も行った。これを鈎の陣という。
1年以上に及ぶ陣中での暮らしで体をこわし、3月、鈎の陣で病のため亡くなった。若い将軍の死は多くの人に惜しまれ、亡きがらは管領の細川政元らに守られて京都へ帰った。将軍職はいとこの足利義材(のちの義稙)が継いだ。
A. 室町幕府の第9代将軍です。8代将軍足利義政と日野富子の子として生まれ、叔父の足利義視との後継ぎ争いは応仁の乱の原因の一つとなりました。8歳で将軍となり、成長後は近江の六角高頼を討つため自ら出陣しましたが、1489年に陣中で病に倒れ、若くして亡くなりました。和歌や学問を好んだことでも知られます。
A. 室町時代の人物です。1465年(寛正6年)に生まれ、1489年(長享3年)に亡くなりました。
A. 足利義尚は山城国京都の生まれです。
A. 1487年、義尚が幕府の命令に従わない近江の六角高頼を討つため、自ら軍を率いて近江の鈎(現在の滋賀県栗東市)に陣を構えた出来事です。義尚は戦いが長引く中、1489年にこの陣中で亡くなりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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