長崎の通詞の家に生まれた。本名は源一郎。幼いころからオランダ語や英語に親しみ、外国の事情に触れる環境で育った。のちに江戸へ出て、新しい学問と情報の世界に身を投じることになる。
幕末の混乱のなか、外国奉行支配の翻訳方として出仕した。条約文や外交文書の訳に携わり、欧米の制度や新聞のあり方を間近で学んだ。若いころから国際情報に触れた経験が、のちの新聞人としての土台になった。
戊辰戦争前後に欧米を視察し、新聞や議会の仕組みを見聞した。維新後は新政府にも仕えたが、しだいに言論の自由を求める立場へ移り、役人よりも記者の道を選ぶようになった。
東京日日新聞(のちの毎日新聞につながる新聞)の主筆となり、論説で政界と社会を鋭く批評した。東京日日新聞を舞台に、わかりやすい文体で読者を増やし、明治の新聞言論を代表する一人となった。
言論統制や政府寄りの圧力に抗しきれず、主筆を退くことになった。権力と距離を取る記者としての姿勢は、読者には支持された一方、経営や政治との摩擦も生んだ。以後はフリーの立場で筆を執った。
友人の十二代目守田勘弥らとともに歌舞伎座の開場に深くかかわった。歌舞伎座は東京の新しい演劇の中心となり、桜痴は改良演劇の構想を現実の舞台へと移す大きな機会を得た。
『大久保利通』など歴史を題材にした歌舞伎脚本を書き、劇作家としての地位を築いた。史実にもとづきつつ観客にわかりやすいドラマとし、明治の歌舞伎に新しい題材を持ち込んだ。
日清戦争のころは戦況や外交を論じる時評でも活躍した。現場の記者というより、広い視野から国の行方を問う論客として読まれた。新聞と演劇の両方で、時代を解説する役割を担った。
晩年も回想や劇評、歴史読み物を書き続けた。明治の新聞創成期を知る生き証人として、後進に経験を語ることも多かった。体は衰えても、筆を置くことはなかった。関係する人々の動きも、あわせて記録に残されている。
東京で病のため亡くなった。享年六十四。通詞の家に生まれ、新聞と歌舞伎の両輪で明治の都市文化を潤した生涯だった。東京日日新聞と歌舞伎座に残した足跡は、今も文化史に記されている。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。