何をした人?
鎌倉幕府の第5代執権です。宝治合戦で有力御家人の三浦氏を滅ぼして北条氏の力を固め、裁判を早く公平にするため引付を置きました。禅宗を厚く信じて建長寺を建て、質素な暮らしで知られ、諸国を旅して民の暮らしを見たという伝説も残ります。
| 名前 | 北条時頼 |
|---|---|
| 生没年 | 1227年(安貞元年) – 1263年(弘長3年) |
| 時代 | 鎌倉時代 |
| 出身地 | 相模国鎌倉 |
| 別名 | 最明寺入道 |
| 主な業績 |
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鎌倉幕府の執権・北条泰時の孫として、北条時氏の子に生まれた。兄に経時がいる。祖父の泰時は御成敗式目を定めた名執権で、時頼はその政治を間近に見て育った。北条氏が幕府の実権をにぎる時代の、まさに中心の家だった。
父の時氏が病のため若くして亡くなった。幼い時頼と兄の経時は、祖父の泰時のもとで育てられた。泰時は孫たちに、武士としての心がまえや、公平な政治の大切さを教えたと考えられている。この経験は、のちの時頼の政治にも生かされた。
鶴岡八幡宮で元服し、時頼と名乗った。名の「頼」の字は、将軍の藤原頼経から与えられたものとされる。若いころから弓や馬の腕にすぐれ、祖父の泰時からも期待されていたと伝わる。のちにその頼経とは、鋭く対立することになる。
祖父の泰時の後を継いだ兄の経時が重い病にかかり、時頼は19歳で執権の職をゆずられた。直後に前の将軍の藤原頼経を中心とする反北条の動きが起こったが、時頼はすばやく抑え、頼経を京都へ送り返した(宮騒動)。
幕府の有力な御家人だった三浦泰村の一族と、北条氏との対立が深まり、ついに鎌倉で戦いとなった(宝治合戦)。三浦一族は敗れて滅び、北条氏に対抗できる大きな御家人はいなくなった。時頼は外祖父の安達景盛らの強い後押しを受けていた。
御家人どうしの領地争いの裁判を早く、公平に進めるため、新たに引付という役所を置いた。祖父の泰時が定めた御成敗式目の精神を受けつぎ、訴えを丁寧に調べさせた。御家人の暮らしを守ろうとする時頼の政治は、人々から高く評価された。
跡継ぎとなる息子の時宗が生まれた。時頼は幼い時宗を大切に育て、将来の執権としての心がまえを教えた。時宗はのちに執権となり、二度にわたるモンゴル軍の襲来に立ち向かうことになる。
将軍の藤原頼嗣を京都へ帰し、後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を新しい将軍として鎌倉に迎えた。初めての皇族の将軍で、将軍は名目だけの存在となり、政治の実権は執権の北条氏がにぎるしくみがいっそう固まった。
中国の宋から来た禅僧の蘭渓道隆を招き、鎌倉に建長寺を建てた。本格的な禅の修行の寺で、時頼自身も熱心に禅を学んだ。これをきっかけに、鎌倉の武士の間に禅宗が広まり、のちの鎌倉五山の中心となる寺が生まれた。
病をきっかけに出家し、執権の職を一族の北条長時にゆずった。しかし幼い時宗が成長するまでのつなぎであり、時頼は北条氏の本家の長として、その後も政治の実権をにぎり続けた。こうして北条本家が権力を持つしくみが強まった。
地震や飢饉、疫病が続くなか、僧の日蓮が『立正安国論』を書いて時頼に差し出した。日蓮は、正しい教えである法華経を信じなければ国に災いが起きると説き、他の宗派をきびしく批判した。幕府はこれを受け入れず、日蓮はのちに流罪となった。
鎌倉の最明寺で、36歳の若さで亡くなった。禅の修行を積み、座禅を組んだまま静かに亡くなったと伝わる。質素な暮らしで民を思った執権として慕われ、のちに旅の僧の姿で諸国を見て回ったという「鉢の木」などの伝説も生まれた。
A. 鎌倉幕府の第5代執権です。宝治合戦で有力御家人の三浦氏を滅ぼして北条氏の力を固め、裁判を早く公平にするため引付を置きました。禅宗を厚く信じて建長寺を建て、質素な暮らしで知られ、諸国を旅して民の暮らしを見たという伝説も残ります。
A. 鎌倉時代の人物です。1227年(安貞元年)に生まれ、1263年(弘長3年)に亡くなりました。
A. 北条時頼は相模国鎌倉の生まれです。
A. 出家した時頼が旅の僧の姿で諸国を回り、雪の夜に貧しい武士の家に泊めてもらったという話です。武士は大切な鉢植えの木を燃やしてもてなし、のちに時頼はその忠義にむくいたと伝わります。謡曲「鉢木」として知られる伝説で、史実かどうかは確かではありません。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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