何をした人?
鎌倉幕府の8代執権です。1268年に執権となり、モンゴル帝国(元)の皇帝フビライの服属の求めを退けました。1274年の文永の役と1281年の弘安の役という2度の元軍の襲来(元寇)を、御家人をまとめて退けました。禅宗をあつく信仰し、円覚寺を開きました。
| 名前 | 北条時宗 |
|---|---|
| 生没年 | 1251年(建長3年) – 1284年(弘安7年) |
| 時代 | 鎌倉時代 |
| 出身地 | 相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市) |
| 主な業績 |
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執権・北条時頼の子として生まれた。生まれる前から跡継ぎとして期待されていた。
父の時頼が病のため執権を一族にゆずって出家した。しかし時頼はその後も実権をにぎり、幼い時宗が成長するのを待った。
10歳のとき、将軍の前で行われた弓の行事で、ほかの武士が尻ごみする中、見事に的を射て人々を感心させたと伝わる。
父の時頼が亡くなった。時頼は禅を深く信じ、建長寺を建てた人で、時宗も父にならって禅を学んだ。
13歳で、執権を助ける連署となった。
モンゴル(元)の皇帝フビライから、従うよう求める国書が届いた。この年、17歳で執権となった。幕府は返事をせず、西国の守りを固めるよう命じた。
謀反の疑いで、異母兄の時輔らを討った(二月騒動)。外国の脅威を前に、幕府の中をまとめるための厳しい決断だったとされる。
元と高麗の大軍が対馬・壱岐をおそい、博多湾に上陸した。集団戦法や「てつはう」という火薬の武器に御家人は苦しんだが、元軍は1日ほどで船に引き上げた。
ふたたび来た元の使者を、鎌倉の龍ノ口で処刑した。決して従わないという強い意志を示したが、戦いはさけられなくなった。
博多湾の海岸に、石を積んだ長い防塁(元寇防塁)を築かせた。九州の御家人たちが交代で守りについた。
南宋がほろびたこの年、宋の禅僧・無学祖元を鎌倉にまねき、教えを受けた。大きな国難を前に、心をしずめる支えを禅に求めたといわれる。
元は約14万ともいわれる大軍で再び攻めてきた。防塁と御家人の奮戦で上陸をはばみ、やがて暴風雨で元の船の多くが沈んで、元軍は退いた。
戦いで亡くなった人々を、敵味方の区別なくとむらうため、無学祖元をまねいて鎌倉に円覚寺を建てた。
元への備えを続ける中、病に倒れ、出家した日に亡くなった。30代前半の若さだった。御家人には十分なほうびを与えられず、その不満は幕府をゆるがしていく。
A. 鎌倉幕府の8代執権です。1268年に執権となり、モンゴル帝国(元)の皇帝フビライの服属の求めを退けました。1274年の文永の役と1281年の弘安の役という2度の元軍の襲来(元寇)を、御家人をまとめて退けました。禅宗をあつく信仰し、円覚寺を開きました。
A. 鎌倉時代の人物です。1251年(建長3年)に生まれ、1284年(弘安7年)に亡くなりました。
A. 北条時宗は相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)の生まれです。
A. モンゴル帝国(元)の軍が2度にわたって九州北部に攻めてきた出来事です。1274年の文永の役と1281年の弘安の役で、どちらも御家人の奮戦や暴風雨などで元軍は退きました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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