安房(千葉県)の漁村で、漁師の家に生まれたと伝わる。自ら「海辺の旃陀羅(身分の低い者)の子」と語った。
11歳で、近くの清澄寺に入って学問を始めた。「日本一の知恵者にしてください」と仏に願ったと伝わる。
15歳で正式に出家した。どの宗派の教えが本当に正しいのかという疑問を持ち、答えを求めて旅立つ決心をした。
このころから鎌倉や比叡山、奈良などで十年以上にわたり経典を学んだ(年は諸説あり)。その中で、法華経こそが最も大切な教えだという確信を深めていった。
31歳で故郷の清澄寺に戻り、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることを説いた。念仏を激しく批判したため、地元の領主の怒りを買い、寺を追われた。鎌倉へ出て、辻に立って教えを説いた。
鎌倉を大地震がおそい、その後も飢饉や疫病が続いた。多くの人が苦しむのを見て、その原因と救いの道を経典の中に探した。
『立正安国論』を前の執権・北条時頼に差し出した。正しい教えを信じなければ、国の中で争いが起き、外国から攻められると警告した。怒った念仏の信者たちに草庵をおそわれた(松葉ヶ谷の法難)。
幕府によって伊豆へ流された。2年ほどで許された。
故郷の安房に帰った際、地頭の東条景信らにおそわれ、額に傷を負い、弟子たちが命を落とした。
元から国書が届くと、『立正安国論』の警告が当たったとして、幕府や寺々に手紙を送り、改めて訴えた。
幕府に捕らえられ、鎌倉の竜ノ口で首を斬られそうになったが、不思議な光が現れて処刑が中止されたと伝わる(竜ノ口の法難)。その後、佐渡へ流され、雪の中の粗末な堂で厳しい冬を過ごした。
佐渡で『開目抄』を書いた。どんな苦難にあっても法華経を広める決意を述べた。
佐渡で『観心本尊抄』を書き、題目を唱える信仰の中心を示した。
許されて鎌倉に戻り、幕府に3度目の警告をしたが受け入れられなかった。甲斐(山梨県)の身延山に入り、弟子の育成に力を注いだ。この年の秋、元が攻めてきた(文永の役)。
病のため、温泉で療養しようと身延を出たが、途中の武蔵国池上(東京都)で、弟子たちに見守られ60歳で亡くなった。弟子の6人が教えを受け継いだ。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。