京都の下級貴族・日野有範の子として生まれた。幼いころに両親と別れたと伝わる。
8歳で、のちに天台座主となる慈円のもとで出家した。夜に出家を願い、「明日があると思う心の桜は、夜中の嵐に散るかもしれない」と詠んだという話が伝わる(伝説)。その後20年近く比叡山で修行した。
比叡山の修行では悩みが解けず、28歳で山を下りた。京都の六角堂に百日こもり、夢のお告げを受けて法然を訪ね、その弟子となった。「法然にだまされて地獄に落ちても後悔しない」とまで語ったと『歎異抄』は伝える。
法然の『選択本願念仏集』を書き写すことを許された。限られた弟子にしか許されないことで、師から深く信頼されていたことが分かる。
念仏が禁じられ、師の法然は讃岐へ、親鸞は越後(新潟県)へ流された。師とはこれが永遠の別れになった。越後で恵信尼と結婚し、子どもたちが生まれた。僧が妻を持つことを公にし、自らを「僧でもなく俗人でもない」と語った。
流罪を許されたが、翌年に法然が亡くなったこともあり、すぐには京都へ戻らなかった。
妻子を連れて関東へ移り、常陸(茨城県)の稲田などを拠点に、約20年にわたって農民や武士に教えを広めた。
このころ、主な著書『教行信証』を書き始めたとされる(浄土真宗の始まりとされる年)。阿弥陀仏を信じる心が起きたとき救いは決まる、という教えを説いた。
このころ京都に戻り、執筆に打ちこんだ。関東の弟子たちとは手紙で教えを伝え合った。悪人こそ救われるという「悪人正機」の考えは、弟子の唯円がまとめた『歎異抄』に記されている。
関東で誤った教えを広めた長男の善鸞を、83歳で親子の縁を切った。つらい決断だったと伝わる。
京都で、末娘の覚信尼らに見守られて89歳で亡くなった。その教えはのちに本願寺を中心に大きく広まった。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。