京都で、身分の高い公家の家に生まれた。父は内大臣の久我通親、母は摂政・藤原基房の娘と伝わるが、父については別の説もある。幼いころから非常にかしこく、中国の古典や詩を早くから読みこなしたと伝わる。
幼くして父に続き母も亡くなった。母の葬儀で、香の煙が立ちのぼって消えていくのを見て、世の中のはかなさ(無常)を深く感じ、仏の道を求める心をおこしたと伝わる。この体験が、道元が出家するきっかけになったといわれる。
比叡山に登り、天台宗の僧として出家した。熱心に経典を学んだが、「人はもともと仏の心をそなえているというのに、なぜ修行が必要なのか」という大きな疑問をいだき、比叡山の師たちに尋ねても納得できる答えは得られなかったと伝わる。
疑問の答えを求めて山を下り、京都の建仁寺で、栄西の弟子だった明全に学んだ。建仁寺は日本に禅を伝えた栄西が開いた寺で、道元はここで禅の修行に触れた。明全とは深い師弟の絆で結ばれ、のちに二人で中国(宋)へ渡ることになる。
明全とともに宋へ渡った。港に着いた船の上で、寺の食事係(典座)をつとめる年老いた僧と出会い、料理をすることも大切な修行だと教えられて驚いたと、道元自身がのちに書き残している。日々の暮らしそのものが修行だという考えの出発点となった。
各地の寺をめぐったのち、天童山の如浄に出会って弟子となった。如浄のもとでひたすら座禅に打ちこみ、ある日「身心脱落」(体も心も一切のとらわれから離れること)の悟りを得て、如浄から教えを受けつぐことを認められた。この年、師の明全は宋で亡くなった。
教えを受けついで日本に帰り、明全の遺骨を建仁寺に納めた。すべての人に座禅をすすめる『普勧坐禅儀』を書き、ただひたすら座ること(只管打坐)こそが仏の道だと説いた。身分や学問に関係なく、だれもが座禅によって仏の道を歩めると考えた。
京都の深草に興聖寺を開き、多くの弟子を集めて本格的に禅の修行の場をつくった。この時期から、仏の教えを日本語で深く説いた『正法眼蔵』を書き始めた。のちに道元の教えを受けつぐ弟子・懐奘もここで道元に入門した。
比叡山からの圧力が強まる中、越前(福井県)の武士・波多野義重の招きを受けて、弟子たちとともに越前へ移った。都を離れ、山深い地で、権力から距離を置いて修行に打ちこむ道を選んだ。
越前の山中に開いた大仏寺を永平寺と改めた。永平寺では、座禅だけでなく、食事・掃除・洗面など日々の暮らしの一つ一つを修行として細かく定め、典座の心得を説いた『典座教訓』なども書いた。永平寺は今も曹洞宗の大本山である。
執権の北条時頼に招かれて鎌倉へ行き、時頼に教えを説いた。鎌倉に寺を建ててとどまるよう求められたとも伝わるが、道元は権力者のそばにいることを望まず、半年ほどで永平寺に戻った。あくまで山の中での修行を大切にした。
病が重くなり、弟子の懐奘に永平寺を任せて、治療のため京都へ向かったが、まもなく京都で亡くなった。道元の教えは懐奘らに受けつがれ、のちに曹洞宗として全国に広まった。『正法眼蔵』は日本の思想を代表する書物として、今も読まれている。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。