日本史人生シミュレーター

濱口雄幸

内閣総理大臣・「ライオン宰相」
時代:明治〜昭和時代 / 1870年〜1931年(61歳ほど)

何をした人?
大正から昭和初めの政治家で、内閣総理大臣をつとめました。高知の生まれで、大蔵省の役人から政治家となり、立憲民政党の初代総裁となりました。総理大臣として金解禁と緊縮財政を進め、ロンドン海軍軍縮条約を結びましたが、1930年に東京駅で襲われ、その傷がもとで翌年亡くなりました。「ライオン宰相」と呼ばれました。

プロフィール

名前濱口雄幸
生没年1870年(明治3年) – 1931年(昭和6年)
時代明治〜昭和時代
出身地土佐国(高知県)
主な業績
  • 大蔵大臣(1924年)
  • 立憲民政党初代総裁(1927年)
  • 内閣総理大臣(1929年)
  • ロンドン海軍軍縮条約(1930年)
この人の一生をたどる(自動再生)

歩んだ道

1870年

土佐の山あいの村に生まれる

土佐国(高知県)長岡郡の山あいの村で、林業を営む水口家の三人兄弟の末っ子として生まれた。兄の話によると、幼いころはとても気が小さく、夏の夜に飛んでくる蛍もつかまえられず、雷の音も大の苦手だったという。のちの堂々とした姿からは想像しにくい少年時代だった。

1889年

濱口家の跡継ぎとなる

高知県の田野村の資産家である濱口義立の長女・夏と結婚し、濱口家の跡継ぎとなった。高知の中学から京都の第三高等中学校へ進み、英語を、のちに三井の中心人物となる団琢磨に教わった。同じ学校には、のちに外務大臣として共に働く幣原喜重郎が同級生にいた。

1895年

大蔵省に入る

帝国大学の法科で政治学を学び、三番の好成績で卒業して大蔵省に入った。まじめで正義感が強く、会計課長のころには、大臣の秘書官と予算をめぐって激しくぶつかったという話も伝わる。料亭で根回しをするような政治を嫌い、筋の通った仕事ぶりで知られていった。

1914年

大蔵次官になる

専売局の長官や逓信省の次官などを経て、大蔵省の次官となった。役人として国のお金の流れを知りつくしたことが、のちに大蔵大臣や総理大臣として財政を立て直そうとする力のもとになった。その誠実な仕事ぶりから、大きな会社の重役に迎えたいという誘いもあったという。

1915年

衆議院議員になる

役人をやめて政党の立憲同志会に入り、衆議院議員の選挙に当選して政治家となった。同志会が憲政会に生まれ変わると、若槻礼次郎、安達謙蔵とともに党の三人の幹部として、党首の加藤高明を支えた。政党が力を持つ政治を目指し、議会での活動に打ち込んだ。

1924年

大蔵大臣になる

加藤高明の内閣で大蔵大臣となった。国の支出をできるだけ切りつめる緊縮の財政を進め、国のお金の使い方を引きしめた。その後、若槻礼次郎の内閣では内務大臣も務めた。演説が力強く、威厳のある顔つきから、のちに「ライオン宰相」と呼ばれるようになった。

1927年

立憲民政党の総裁に

憲政会と政友本党が一つになって立憲民政党ができると、その最初の総裁に選ばれた。民政党は、もう一つの大きな政党である立憲政友会と争いながら、政党による政治を担う二大政党の一つとなった。濱口は党の顔として、政権を担う準備を進めた。

1929年

内閣総理大臣になる

田中義一の内閣が辞めた後、内閣総理大臣となった。明治生まれで初めての総理大臣で、衆議院議員から総理大臣となった数少ない人の一人である。日本の首相として初めて、当時新しいメディアだったラジオで国民に直接、自分の政策を語りかけ、協力を呼びかけた。

1930年

金解禁を行う

元日本銀行総裁の井上準之助を大蔵大臣に起用し、金の輸出の禁止を解く金解禁を行い、緊縮の財政を進めた。不況から抜け出し経済を立て直すための一時の苦しみだと国民に訴えたが、直前に始まった世界恐慌の波を受け、日本はかえって深刻な不況に陥った。

1930年

ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ

外務大臣の幣原喜重郎とともにアメリカやイギリスと協調する外交を進め、軍艦の数を制限するロンドン海軍軍縮条約を結んだ。海軍の一部や野党は、軍の指揮権である統帥権を政府がおかしたと激しく攻撃したが、濱口は反対を押し切り、条約の承認を実現させた。

1930年

東京駅で襲われる

東京駅のホームで、政策に反発する右翼の青年に銃で撃たれ、大けがを負った。濱口は周りに「大丈夫だ」と声をかけたといい、大きな手術を受けて一命を取りとめた。首相が通る際に一般の人の出入りを止めなかったのは、人々に迷惑をかけたくないという濱口自身の考えだったとされる。

1931年

最期

傷が治りきらないまま、野党の求めに応じて無理をして議会に出たが、体調は悪化し、総理大臣と民政党総裁を辞めた。その後も療養を続けたが、傷のもとになった病気が悪化して夏に亡くなった。筋を通す姿勢と国際協調の政治は、今も「ライオン宰相」の名とともに語られている。

この時代に起きたこと

よくある質問

Q. 濱口雄幸は何をした人ですか?

A. 大正から昭和初めの政治家で、内閣総理大臣をつとめました。高知の生まれで、大蔵省の役人から政治家となり、立憲民政党の初代総裁となりました。総理大臣として金解禁と緊縮財政を進め、ロンドン海軍軍縮条約を結びましたが、1930年に東京駅で襲われ、その傷がもとで翌年亡くなりました。「ライオン宰相」と呼ばれました。

Q. 濱口雄幸はいつの時代の人ですか?

A. 明治〜昭和時代の人物です。1870年(明治3年)に生まれ、1931年(昭和6年)に亡くなりました。

Q. 濱口雄幸の出身地はどこですか?

A. 濱口雄幸は土佐国(高知県)の生まれです。

Q. なぜ「ライオン宰相」と呼ばれたのですか?

A. がっしりした体つきと太い眉、たてがみのような髪の、ライオンを思わせる風ぼうから「ライオン宰相」と呼ばれました。まじめで信念を曲げない人柄も、そのあだ名にふさわしいと受け止められました。

参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata

この人の一生をたどる(自動再生)

関係する人物

加藤高明

同じ時代の人物(大正)

長岡半太郎南方熊楠西田幾多郎本多光太郎島村抱月堺利彦泉鏡花美濃部達吉

大正の人物一覧 ・ 時代別の人物一覧

教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。

人物一覧へ