石見国那賀郡(島根県浜田市)の山あいの村で、佐々山家の長男として生まれた。本名は滝太郎。家は父の事業の失敗で貧しく、少年のころから働きながら学ばなければならなかった。それでも本を読むことが好きで、学問への思いは強かった。
浜田の裁判所などで働くうちに、その才能を検事の島村文耕に認められ、援助を受けて島村家の養子となった。この縁で東京で学ぶ道が開かれた。のちに名乗る「抱月」の名とともに、島村の姓は生涯の名となった。
東京専門学校(今の早稲田大学)に入学し、坪内逍遥や大西祝のもとで文学や哲学、美学を学んだ。とくに逍遥からは、西洋の文学や演劇を日本に取り入れようとする強い熱意を受けつぎ、のちに逍遥とともに新しい演劇の運動を進めることになる。
学校を卒業すると、逍遥が始めた雑誌『早稲田文学』の記者となり、文学や美学についての評論を次々に書いた。鋭い評論で注目され、母校の講師もつとめるようになった。このころから「抱月」の名で知られるようになる。
早稲田から派遣され、イギリスのオックスフォードとドイツのベルリンで学んだ。留学中、各地の劇場に通い、イプセンなどの近代劇が人々の心をゆさぶるようすを目の当たりにした。この体験が、日本にも新しい演劇が必要だという抱月の思いを強めた。
帰国して早稲田大学の教授となり、翌年には『早稲田文学』を再び刊行して、その中心となった。人間や社会をありのままに描く自然主義の文学を強く支持する評論を書き、島崎藤村や田山花袋らの作品を高く評価して、自然主義文学の旗手と呼ばれた。
坪内逍遥とともに文芸協会をつくり、西洋の演劇を日本に紹介する新しい演劇(新劇)の運動を始めた。のちに協会に演劇研究所を設けて役者を育て、その中に、のちに日本を代表する女優となる松井須磨子がいた。
文芸協会でイプセンの『人形の家』を上演し、抱月が演出を担当した。主人公ノラを演じた須磨子の演技は大きな話題となり、自分の生き方を自分で選ぼうとするノラの姿は、女性の生き方をめぐる議論を社会にまき起こした。
須磨子との恋愛が問題となり、抱月は師の逍遥と別れて文芸協会を離れた。妻子がありながらの恋で世間から強く批判されたが、抱月は須磨子とともに劇団「芸術座」を結成し、新しい演劇を多くの人に届ける道を選んだ。
トルストイの小説をもとにした劇『復活』を上演し、劇中で須磨子が歌った「カチューシャの唄」(作詞は抱月と相馬御風、作曲は中山晋平)が全国で大流行した。レコードも売れ、新劇が広く人々に親しまれるきっかけとなった。
芸術座は『復活』などを持って日本各地や朝鮮・満州・台湾など各地をめぐって公演し、多くの観客を集めた。東京の牛込には劇場をかねた研究所「芸術倶楽部」を建てた。芸術と、多くの人に楽しんでもらう興行の両方を大切にしようとした。
当時世界中で流行していたスペインかぜにかかり、東京の芸術倶楽部で亡くなった。看病した須磨子は大きな悲しみに沈み、翌年のはじめ、抱月のあとを追うように世を去った。抱月の情熱は、日本の新劇の歩みの中に受けつがれている。
長岡半太郎南方熊楠西田幾多郎本多光太郎堺利彦泉鏡花美濃部達吉鈴木梅太郎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。