尾張(愛知県)の尾張藩の下級武士・服部家に生まれ、のちに加藤家の養子となった。名古屋で英語などの洋学を学び、さらに東京に出て勉学を続けた。
東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社した。社長の岩崎弥太郎に見こまれ、イギリスへ送られて海運業などを学んだ。
岩崎弥太郎の長女・春路と結婚した。三菱との深いつながりは、のちに政治家としての大きな支えとなった。
外務省に入り、まもなく外務大臣・大隈重信の秘書官となった。大隈とのつながりは、このときから始まった。
イギリス駐在の公使となった。イギリスの議会政治を間近で見て、のちの政党政治の手本とした。日本とイギリスが手を結ぶことの必要も早くから説いた。
第4次伊藤博文内閣の外務大臣となった。その後も何度も外務大臣をつとめ、外交の専門家として知られた。
桂太郎がつくろうとした新しい政党・立憲同志会に加わり、桂の死後にその中心となって党を率いた。官僚出身でありながら、政党を率いる政治家の道を選んだ。
第2次大隈重信内閣の外務大臣として、日英同盟を理由に第一次世界大戦への参戦を進めた。
中国に対して二十一か条の要求をつきつけ、その多くを認めさせた。しかし中国の人々の強い反発をまねき、国の内外から批判を受けた。
同志会などをまとめて憲政会をつくり、総裁となった。その後は長く野党の時代が続き、苦しい年月は「苦節十年」と呼ばれた。
第二次の護憲運動で、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派が選挙に勝ち、首相となった。
二十五歳以上の男子すべてに選挙権を与える普通選挙法を成立させた。同時に、社会運動を取りしまる治安維持法もつくられた。ソ連との国交も開いた。
首相在任中に病に倒れ、議会の会期中に亡くなった。彼のあと、議会の多数党の党首が首相となる「憲政の常道」がしばらく続いた。
高橋是清犬養毅原敬尾崎行雄加藤友三郎牧野富太郎長岡半太郎南方熊楠
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。