美作(岡山県)の武士・漆間時国の子として生まれた。幼い名は勢至丸。
8歳のとき、父が争いにより夜討ちにあって命を落とした。父は「かたきをうらむな。仇討ちをすれば争いは終わらない。出家して皆が救われる道を求めよ」と言い残したと伝わる。
このころ比叡山に上り、天台宗の学問を学び始めた(年は諸説あり)。たいへんな勉強家で「智恵第一の法然房」と呼ばれた。
17歳で、比叡山の奥にある黒谷にこもり、師の叡空のもとで修行した。出世を望まず、ひたすら救いの道を求めた。「法然」の名はこのころからのもの。
保元の乱が起きたこの年、京都の清凉寺などに参り、学問だけでは救われない人々の道を探して悩み続けたと伝わる。
中国の僧・善導の書を読み、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、だれでも極楽浄土に生まれられるという教えにたどりついた。42歳で比叡山を下り、京都の東山で教えを広め始めた。浄土宗の始まりとされる。
京都の大原で、さまざまな宗派の学僧たちと念仏について語り合い、多くの人を感心させたと伝わる(年は諸説あり)。
関白・九条兼実の願いで、念仏の教えをまとめた『選択本願念仏集』を書いた。貴族から武士、庶民まで、身分を問わず多くの人が教えを求めて集まった。
比叡山を下りた若い僧・親鸞が弟子となった。親鸞は生涯、師の法然を深くしたい続けた。
比叡山の僧たちが念仏の禁止を求めると、弟子たちに行き過ぎた行いをいましめる「七箇条制誡」を示し、署名させた。
弟子の行いが問題とされ、念仏が禁じられた。法然は僧の資格を奪われ、四国の讃岐へ流された。弟子のうち数人は死罪となった。それでも法然は、地方の人々に教えを説く機会だと語ったと伝わる。
罪を許され、京都の東山大谷に戻った。年老いた体は弱っていた。
亡くなる直前、弟子の願いに応えて、念仏の教えの要点を短く書いた『一枚起請文』を残した。念仏を唱えながら静かに息を引き取った。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。