大坂町奉行所の与力(役人)の家に生まれた。
このころ、見習いとして奉行所で働き始め、のちに与力となった。
このころ、知ることと行うことは一つであるとする陽明学を学び、自宅に私塾「洗心洞」を開いて門人を教えた。
役人の不正をきびしく取りしまり、正義感の強い名与力として知られた。
養子に職をゆずって与力をやめ、学問と教育に打ちこんだ。
天保の飢饉で大坂でも米が足りず、うえ死にする人が出た。大塩は奉行所に救済をうったえたが聞き入れられず、奉行所は米を江戸へ送っていた。
自分の大切な蔵書を売り、そのお金を貧しい人々に配った。
門人や農民らとともに兵をあげ、大坂の町で豪商の家などをおそった。乱は半日でしずめられたが、元幕府の役人が起こした反乱として幕府に大きな衝撃をあたえた。
しばらく大坂にかくれていたが見つかり、自ら命を絶った。
頼山陽広瀬淡窓会沢正志斎二宮尊徳渡辺崋山水野忠邦ペリーシーボルト
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。