水戸藩士会沢恭敬の長男として、水戸城下に生まれた。会沢家はもともと久慈郡の農家で、藩主の鷹狩りのための小鳥を捕る役から身を起こし、父の代になってようやく武士の身分を得た家だった。努力で地位を築いた家の空気が、学問への熱意を育てた。
十歳ほどで、若き学者藤田幽谷の私塾に入門し、「沈着で深く、すぐれた見識がある」と評された。師の幽谷は八歳ほど年上にすぎなかったが、すでに学識で名高く、空論より世の中に役立つ学問を重んじた。正志斎は生涯この師を敬い、のちにその教えを書物にまとめた。
水戸藩が代々編さんしてきた歴史書『大日本史』の編集所である彰考館に入り、書き写しの係となった。このころロシアの使節が根室に来たことから、師の幽谷はロシアの南下に関心を寄せ、正志斎も手に入る書物からロシアの事情を調べ始めた。
調べた内容をもとに、ロシアの国の様子や北方の国際関係をまとめた『千島異聞』を書いた。まだ外国のことを知る人が少ない時代に、日本の北の守りを心配する視点はめずらしかった。外からの脅威に備えるという関心は、このころから彼の学問の柱となった。
藩主の息子たちの教育係を命じられ、その中にはのちに九代藩主となる徳川斉昭もいた。学問を通じて結ばれた斉昭との信頼関係は、のちの藩政改革でともに働く土台となった。若い主君に、国を守る心構えと歴史の学びを熱心に説いたという。
水戸藩の大津浜に、食料を求めてイギリスの捕鯨船員が上陸した。英語もオランダ語も話せなかったが、世界地図や数字を書いて見せる筆談で航海の様子などを聞き取り、記録にまとめた。外国船が実際に日本の岸に現れたこの出来事は、彼の危機感を強めた。
幕府が外国船を追い払う命令を出したのを受け、内外の危機にどう立ち向かうかを論じた『新論』を書いて藩主に差し出した。天皇を中心に国をまとめ、外国を退けるという尊王攘夷の考えを体系的に示した書だが、幕府の政策に触れるため長く公には出版されなかった。
藩主の跡継ぎ問題が起こると、藤田東湖らとともに斉昭を推す運動に加わり、江戸へ駆けつけた。許しなく江戸に出た罪で謹慎を命じられたが、まもなく許された。斉昭が藩主になると重く用いられ、『大日本史』を編む彰考館の総裁となって藩政改革を支えた。
斉昭が開いた藩校弘道館の初代教授頭取に任じられた。開校に先立って全国の藩校の規模や教え方を研究し、学校の仕組みをまとめた書も著した。弘道館は文武の両方を学ぶ場として翌年開かれ、水戸学を多くの藩士に広める拠点となった。
斉昭が改革のやり方をとがめられ、幕府から隠居と謹慎を命じられると、正志斎も家にこもるよう命じられた。四年後に斉昭が政治に復帰すると許され、再び弘道館で教えた。将軍に会う機会も得て、学者としての名は全国に知られるようになった。
長州の吉田松陰が水戸を訪れ、正志斎に六度も会って教えを受けた。正志斎は酒を用意してもてなし、天下の事情に通じた話を聞かせたという。この出会いで松陰は「日本」という国への自覚を強めた。『新論』は幕末の志士たちに広く読まれていった。
幕府が朝廷の許しを得ずに通商条約を結ぶと、朝廷から水戸藩に密勅が下った。正志斎はこれを諸藩に回すことに反対して朝廷に返すべきだと主張し、過激な尊王攘夷派と対立した。斉昭が安政の大獄で処罰されて藩内が混乱すると、その収拾に力を尽くした。
一橋慶喜に『時務策』を差し出し、今の情勢では外国と交わることはやむを得ないと説いた。攘夷論の大家とされた人物の現実的な主張に、過激派からは「老いぼれた」と非難された。若いころの主張にこだわらず、時代の変化を見つめた結論だった。
水戸の自宅で、八十歳を超える長い生涯を閉じた。『新論』の言葉は幕末の志士たちに部分的に取り入れられ、明治以後の国家の考え方にも影響を与えた。一方、晩年に開国を認めたことは変節とも受け取られ、評価は今も分かれている。
調所広郷間宮林蔵頼山陽広瀬淡窓二宮尊徳大塩平八郎渡辺崋山水野忠邦
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。