豊後国日田(今の大分県日田市)の豆田町で、商家博多屋の長男として生まれた。幼名は寅之助。日田は幕府が直接治める天領で、商人たちが栄えていた。幼いころは伯父夫婦に育てられ、のちに実家に戻って読書や習字を学んだ。
少年のころから賢く、久留米の浪人松下筑陰の弟子となって漢詩や文章を学んだ。それより前から寺の僧に『詩経』を習い、さまざまな漢籍の講義を聞いていた。しかし数年後、筑陰が佐伯藩に仕えることになり、師と別れることになった。
筑前国福岡の亀井塾に入門が許され、儒学者亀井南冥・昭陽の父子に学んだ。九州各地から集まる学友と競い合いながら学問にはげんだ。のちにこの塾の学友から眼科の医術を教わったこともあった。
重い病気にかかって亀井塾を去り、日田に帰った。病は長引き、一時は命も危ぶまれたが、肥後国の医師倉重湊の治療で救われた。妹の秋子も看病に尽くした。体が弱いことから、家業は弟の久兵衛に任せることにした。
病気がちで家業を継げなかった淡窓は、一度は医者になろうと考えたが、気持ちが続かなかった。命の恩人倉重湊から、学問を教えることこそ自分の道だと勧められ、学者・教育者として生きることを決めたと伝わる。
豆田町の長福寺の学寮を借りて講義を始め、その後、借家に移って成章舎という塾を開いた。目の病気があり、医者に目を使いすぎないよう言われたため、経書の注釈よりも本文を自分で読み解く学び方をとり、独自の考えを育てた。
塾生がふえたため塾舎を新しく建て、桂林荘と名づけた。このころ「休道の詩」で知られる「桂林荘雑詠」を作った。「他郷に苦労が多いと言うのはやめよう、友がいるではないか」とよび、故郷を離れて学ぶ若者を励ます詩として今も愛唱されている。
堀田村に塾を移して咸宜園と名づけ、塾生と一緒に暮らすようになった。咸宜とは「ことごとくよろし」という意味である。入門のときに年齢や学歴、身分を問わず、毎月の成績で塾生の等級を決める月旦評という実力主義の教育を行った。
日田を訪れた詩人・歴史家の頼山陽と何度も会って語り合った。こうした交流を通じて淡窓の名は広く知られ、咸宜園には九州だけでなく日本各地から若者が集まった。のちに蘭学者の高野長英や大村益次郎も学んだとされる。
病気がちなこともあり、咸宜園の運営を末の弟広瀬旭荘に任せた。自らは著述に力を注ぎ、天を敬い、善い行いをすれば天から報われるという「敬天」の考えをまとめた。のちに再び塾の指導に戻り、多くの門人を育てた。
教育の功績が認められ、幕府から子孫まで名字を名のり刀を差すことを許された。商人の出身ながら武士に近い扱いを受けたことは、咸宜園の名声の高さを示している。藩や代官所から相談を受けることもあった。
長年つけてきた万善簿で、ついに一万の善を達成した。良いことをすれば白丸、食べすぎなど悪いことをすれば黒丸をつけ、差し引きで一万になるまで続けるという記録である。その後も二度目の万善を目指して記録を続けた。
前の年に塾を養子の広瀬青邨に任せ、この年、自らの墓に刻む文を書いたのち、11月に日田で亡くなった。咸宜園はその後も明治時代まで続き、入門者は延べ4000人を超えて、日本最大級の私塾となった。
平田篤胤調所広郷間宮林蔵頼山陽会沢正志斎二宮尊徳大塩平八郎渡辺崋山
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。