群馬県の前橋で、医者の萩原密蔵の長男として生まれた。体が弱く神経質な子どもで、ひとりで空想にふけることが多かったという。
このころ、中学生のうちから短歌をつくり、与謝野鉄幹・晶子の雑誌『明星』に歌が載った。
高校に進んだが落第をくり返して退学し、そのあと大学も中退した。進む道に迷いながら、マンドリンやギターに熱中し、音楽家を夢見たこともあった。
北原白秋の雑誌『朱欒』に詩が載り、詩人として歩み始めた。同じ雑誌に詩を寄せていた室生犀星と知り合い、生涯の親友となった。
犀星や山村暮鳥とともに、詩や音楽を研究する人魚詩社をつくった。三人は詩・宗教・音楽の研究をかかげ、翌年には機関誌『卓上噴水』を出した。
犀星と二人で、詩の雑誌『感情』を創刊した。新しい口語の詩を発表する場となった。
第一詩集『月に吠える』を出した。話し言葉で、病的なまでに鋭い感覚を表した詩は、日本の口語自由詩を完成させたと高く評価された。一部の詩は、風俗を乱すとして削除させられた。
詩集『青猫』を出し、都会に生きる人の憂うつやさびしさを、音楽のような言葉で歌った。
家族とともに東京に移り住んだ。詩の評論や随筆も多く書き、芥川龍之介ら作家とも交わった。
妻と別れ、二人の娘を連れて前橋の実家に戻った。このころの苦しい思いは、のちの詩に深い影を落とした。
漢文調の力強い言葉で、孤独と絶望を歌った詩集『氷島』を出した。この年から明治大学で詩の講義も行った。
肺炎のため東京で亡くなった。日本の近代詩を大きく変えた人として「日本近代詩の父」とも呼ばれる。ふるさとの前橋には、朔太郎の記念館がある。
大杉栄平塚らいてう松井須磨子山田耕筰谷崎潤一郎中山晋平菊池寛賀川豊彦
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。