兵庫県神戸市で、海運業を営む賀川純一の子として生まれた。母は徳島で芸者をしていた人で、正式な妻の子ではなかった。のちに貧しい人々のために一生をささげ、「貧民街の聖者」として世界に知られる社会運動家となる。
幼くして父と母を相次いで亡くし、姉とともに徳島の本家に引き取られた。血のつながらない父の正妻と祖母に育てられ、まわりから陰口を言われる寂しい子ども時代を送った。のちには兄の浪費で家が破産し、叔父の家に移った。
徳島中学校に通っていたころ、アメリカ人宣教師マヤスから洗礼を受けてキリスト教徒となった。安部磯雄や木下尚江の本を読んでキリスト教社会主義にひかれ、トルストイの反戦思想にも影響を受けて、学校の軍事教練を拒んだこともあった。
キリスト教の伝道者を志し、東京の明治学院の神学部予科に入った。在学中に「世界平和論」を書き、徳島の新聞に載った。その後、新しくできた神戸神学校に移ったが、結核に苦しみ、信仰への迷いにも悩む日々が続いた。
貧しい人々の問題を通してイエスの心を表したいと決心し、神戸の新川のスラムに住みこんで、道ばたで伝道を始めた。病気や飢えに苦しむ人々の世話をし、のちに一膳飯屋も開いた。この活動はのちのイエス団の始まりとなった。
スラムで出会った芝ハルと、神戸の教会で質素な結婚式を挙げた。披露宴にはスラムの隣人を招き、「困った時はいつでも頼みに来てください」と妻を紹介した。ハルも夫とともに救済活動に力を尽くし、のちに自らも社会運動家となった。
アメリカに渡り、プリンストン大学とプリンストン神学校で学びながら、アメリカの社会事業や労働運動を見て回った。翌年、スラムでの体験をもとにした『貧民心理之研究』が出版された。貧困の解決には労働組合が大切だと考えるようになった。
帰国後は神戸のスラムで無料の診療を始め、鈴木文治の友愛会と手を結んで、友愛会関西労働同盟会をつくり理事長となった。この年には日本基督教会の牧師の資格も得て、宗教と社会運動の両方で活動を広げていった。
自伝的な小説『死線を越えて』を出し、1年で100万部をこえる大ベストセラーとなった。英語などにも訳されて名が世界に知られた。印税の多くは社会運動に使われた。この年、神戸購買組合をつくり、今のコープこうべにつながる生活協同組合運動を始めた。
神戸の三菱・川崎の造船所で起きた大きな労働争議を指導し、多くの労働者のデモを率いた。しかし警官隊との衝突で賀川ら多くの幹部が逮捕され、争議は労働者側の敗北に終わった。暴力を使わない賀川の考えは、急進派から激しく批判された。
杉山元治郎とともに日本農民組合をつくり、小作農の暮らしを守る農民運動に本格的に取り組んだ。組合は急速に広がり、3年後には組合員が7万人をこえた。労働運動の場が急進派に移るなかで、農村へと活動の中心を移していった。
関東大震災が起きると、すぐに東京へかけつけて被災者の救援を始めた。本所に拠点を置き、宗教、医療、保育などはば広い活動を進め、消費組合や信用組合もつくった。この活動は今も東京の本所賀川記念館に受けつがれている。
戦争が広がるなか、平和を説く考えを危険とみなされ、憲兵隊に連れて行かれて取り調べを受けた。その後も取り調べが続き、戦争の後期には多くの宗教家と同じく戦争に協力する姿勢をとった。これは仲間や事業を守るためだったともいわれる。
戦争が終わると、自由懇話会をつくって政治の活動を始め、日本社会党の結成にも加わった。晩年は世界をひとつの連邦にまとめて戦争をなくそうとする世界連邦運動に力を注いだ。ノーベル文学賞やノーベル平和賞の候補にもなった。
東京・世田谷の上北沢の自宅で亡くなった。評論家大宅壮一は、人々の暮らしに根ざした多くの運動は賀川に始まると言ってもよいとたたえた。アメリカのワシントン大聖堂には、キング牧師らとともに賀川の像がかかげられている。
萩原朔太郎谷崎潤一郎中山晋平菊池寛岸田劉生金栗四三芥川龍之介市川房枝
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。