長野県の新野村、今の中野市に生まれた。家は村の名主や村長を出した古い家であったが、父が急に亡くなって暮らしは苦しくなった。母が蚕を育てる仕事をしながら女手一つで育ててくれた。貧しい暮らしの中でも、歌うことが大好きな少年であった。
長野の師範学校の講習を終えたのち、小学校の代用教員となった。唱歌が大好きで、子どもたちからは唱歌先生と呼ばれて慕われた。音楽への思いは日に日に強くなり、本格的に音楽を学びたいという夢を胸に抱くようになった。
故郷での教員の仕事を辞めて東京に出た。島村抱月の弟との縁から、文学者で演劇の指導者でもあった島村抱月の家に住みこみ、書生として働きながら学んだ。抱月との出会いが、のちに晋平の作曲家としての運命を大きく開くことになる。
念願がかない、東京音楽学校の予科に入学した。翌年には本科のピアノ科に進み、西洋の音楽を本格的に学んだ。書生として働きながらの苦しい勉強であったが、ここで身につけた音楽の基礎が、やがて多くの名曲を生み出す力となった。
東京音楽学校の本科を卒業し、東京浅草の千束小学校で音楽を専門に教える先生となった。子どもたちに歌を教えるかたわら、作曲の活動も続けた。教室で子どもたちと歌った経験は、のちに子どもの心に寄りそう童謡を作るときに生かされたと考えられる。
島村抱月が松井須磨子らと始めた劇団芸術座に加わり、トルストイの復活の舞台で歌われるカチューシャの唄を作曲した。松井須磨子の歌で全国に大流行し、晋平は一躍その名を知られるようになった。日本の流行歌の始まりともいわれる一曲である。
芸術座が上演したツルゲーネフのその前夜の劇中歌として、いのち短し恋せよ乙女と歌うゴンドラの唄を作曲した。この歌も大変な人気となった。のちにこの歌は映画にも使われ、時代を越えて歌い継がれる名曲となった。晋平の旋律は人々の心をとらえた。
北原白秋の詞を得て、トルストイの作品を劇にした舞台の劇中歌としてさすらいの唄などを作った。このころ作った歌の中には、歌詞が問題とされてレコードの発売を禁じられたものもあった。芸術座の舞台とともに、晋平の歌は大正の人々に広く口ずさまれた。
前の年に島村抱月が亡くなり、芸術座は解散した。恩人を失った晋平は、子ども向けの雑誌金の船に童謡を発表し始めた。当時は童謡がまだあまり知られておらず、学校の先生という立場をはばかって、別の名前で発表したという。新しい道を探る時期であった。
詩人の野口雨情と組んで、金の船から多くの童謡を発表した。シャボン玉や証城寺の狸囃子、てるてる坊主など、今も歌われる童謡が次々に生まれた。また雨情や西條八十、北原白秋の詞で、各地の土地を歌う新民謡にも力を注ぎ、その数は百四十曲を超えた。
長く勤めた千束小学校の教員を辞め、作曲に専念する道を選んだ。童謡や新民謡、流行歌と、幅広い歌を次々に生み出していった。明るく親しみやすいその独特の節回しは、晋平節と呼ばれて多くの人に愛されるようになった。
日本ビクターの専属の作曲家となった。世界的なオペラ歌手の藤原義江や、佐藤千夜子の歌によって、波浮の港や出船の港など多くのヒット曲を生んだ。レコードとラジオが広まる新しい時代の中で、晋平の歌はさらに多くの人々の耳に届くようになった。
西條八十と組んで作った東京行進曲が、佐藤千夜子の歌で二十五万枚という記録的なレコードの売れ行きとなった。この頃には作曲した流行歌の楽譜集も出され、竹久夢二の表紙の人気もあって大いに売れた。晋平は日本の流行歌の第一人者となった。
その二年前には音楽家の団体である日本音楽文化協会の理事長となっていた。戦争が激しくなる中、この年に熱海に疎開した。同じ年、作曲家の権利を守る日本音楽著作権協会の理事長にもなり、のちに会長を務めた。戦後はほとんど曲を作ることがなかった。
この年の正月にはNHK紅白歌合戦の審査委員長を務めた。暮れに自作のゴンドラの唄が使われた映画生きるを映画館で観た翌日に倒れ、熱海の病院で亡くなった。最期には自ら作った童謡あの町この町を口ずさんでいたという。告別式ではカチューシャの唄が歌われた。
松井須磨子山田耕筰萩原朔太郎谷崎潤一郎菊池寛賀川豊彦岸田劉生金栗四三
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。