香川県の高松で、代々高松藩の儒学者をつとめた家に生まれた。しかし家は貧しく、教科書を買えずに書き写して使ったこともあったと伝わる。
このころ、高松の図書館に通いつめ、そこにある本をほとんど読みつくすほど読書に熱中したと伝わる。この読書が、のちの作家としての力の土台となった。
いくつかの学校を経て、第一高等学校に入学した。同級生には芥川龍之介や久米正雄らがおり、のちの文学の仲間となった。
卒業を前に、友人が盗んだマントの罪をかぶって一高を退学したと伝わる。その後、京都帝国大学に進んで英文学を学んだ。
芥川らと同人誌『新思潮』(第4次)に加わった。京都帝大を卒業して東京に出て、新聞社・時事新報の記者となった。
戯曲『父帰る』を発表した。家族を捨てて出ていった父が、年老いて帰ってくる話で、のちに舞台で上演されて大きな感動を呼んだ。
小説『忠直卿行状記』を発表し、作家として認められた。人の心の動きをわかりやすく、はっきりと描くテーマ小説で、人気作家となっていった。
人をあやめた罪をつぐなうため、僧が何十年もかけて岩山にトンネルを掘る物語『恩讐の彼方に』を発表した。大分県の青の洞門の言い伝えをもとにした作品である。
新聞に連載した長編『真珠夫人』が大評判となり、多くの人に読まれる大衆小説の作家としても大成功をおさめた。
雑誌『文藝春秋』を創刊した。若い作家に作品を発表する場を与えようと始めた雑誌は大成功し、のちに日本を代表する出版社へと成長した。
亡き友・芥川龍之介と直木三十五の名を記念して、芥川賞と直木賞をつくった。二つの賞は今も新人作家の登竜門として続いている。
戦争中の活動を理由に、戦後、公職追放を受けた。追放が解かれる日を迎えることなく、翌年この世を去ることになる。
病のため東京で亡くなった。作家としてだけでなく、作家の生活を守るしくみづくりや出版の事業でも大きな足あとを残し、「文壇の大御所」と呼ばれた。
山田耕筰萩原朔太郎谷崎潤一郎中山晋平賀川豊彦岸田劉生金栗四三芥川龍之介
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。