将軍を助ける管領をつとめる細川家の、細川持之の子として生まれた。
嘉吉の変の翌年、父が亡くなり、少年で細川家を継いだ。一族や家臣たちが幼い当主を支えた。
10代半ばで管領となった。その後も3度、長く管領をつとめ、幕府の政治の中心に立った。
このころ、有力な守護大名・山名宗全の養女と結婚し、手を組んだ。二人は協力して、赤松氏や畠山氏の問題に当たった。
京都に禅寺の龍安寺を建てた。今に残る石庭は、のちの時代に作られたものと考えられている。勝元は和歌や絵、医学にもくわしい教養人だった。
嘉吉の変でほろぼされた赤松氏の再興を助けた。赤松氏の旧領を得ていた宗全はこれに反発し、二人の仲は悪くなっていった。
跡継ぎとなる政元が生まれた。
将軍家や畠山氏の跡継ぎ争いをめぐり、宗全との対立が決定的になった。勝元は東軍の総大将として、将軍のいる花の御所を押さえた。両軍あわせて20万をこえる兵が京都に集まったといわれる。
戦いが長引く中、この年に宗全が亡くなり、勝元も2か月ほど後に病で亡くなった。40代前半だった。二人の死後も戦いはしばらく続いた。
蓮如雪舟宗祇朝倉孝景(敏景)太田道灌足利義政足利義視日野富子
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。