関白・一条経嗣の子として京都に生まれた。一条家は藤原氏の流れをくむ摂関家の一つで、家には先祖から伝わる多くの書物があった。兼良は幼いころからそれらに親しみ、並外れた学問の才を見せたという。
このころ、朝廷で一年の間に行われる行事の由来や意味を、わかりやすく解説した『公事根源』を著したと伝わる。若いうちから、宮廷の儀式や古いしきたり(有職故実)にくわしい学者として知られた。
後花園天皇の摂政に任じられた。このときは2か月ほどで職を退いたが、のちに太政大臣や関白へと進んだ。名門の当主として朝廷の政治にかかわりつつ、学問の研究を一生続けた。
関白となり、朝廷の頂点に立った。兼良は「日本無双の才人」とたたえられ、自らも「菅原道真よりすぐれた点がある」と語ったと伝わるほど、和漢の学問に自信を持っていた。
このころ、『日本書紀』の神代の巻を、仏教や儒学の考え方も使って解説した『日本書紀纂疏』を著した。古典を幅広い知識で読み解く兼良の学問を代表する著作の一つである。
再び関白となったこの年、応仁の乱が始まった。京都は東軍と西軍の戦いで焼け野原となり、一条家の屋敷も焼けてしまった。戦乱の中で、公家たちの暮らしは苦しくなっていった。
先祖代々の書物を納めた文庫「桃華坊」も焼け、多くの貴重な本が失われた。兼良は、奈良の興福寺大乗院の門跡となっていた子の尋尊を頼って奈良へ避難し、そこで研究を続けた。
奈良で、『源氏物語』の注釈書『花鳥余情』を完成させた。物語の言葉の意味や背景を細かく解き明かしたこの本は、のちの『源氏物語』研究に大きな影響を与えた。
美濃(岐阜県)の有力者・斎藤妙椿を頼って美濃へ旅し、そのようすを紀行『藤河の記』に書いた。戦乱で収入が減った公家にとって、地方の有力者の援助はとても大切だった。
応仁の乱がようやく終わり、京都へ戻った。このころ、将軍足利義政の妻・日野富子の援助を受け、富子のために心がけや教養を説いた『小夜のねざめ』を書いて贈った。
9代将軍・足利義尚の求めに応じて、政治の心得を説いた『樵談治要』を書いて贈った。守護の選び方や民を大切にすることなど、乱世の将軍に向けた教えをまとめたものである。
この年に亡くなった。応仁の乱の混乱の中でも学問を続け、和歌・連歌・古典・有職故実など多くの分野で書物を残した兼良は、室町時代を代表する大学者とされている。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。