何をした人?
戦国時代の武将で、室町幕府の管領をつとめた細川京兆家の当主です。父の仇の細川高国を倒して幕府の実権をにぎりましたが、家臣の三好長慶と対立して江口の戦いで敗れ、実権を失いました。下剋上の時代を象徴する人物とされます。
| 名前 | 細川晴元 |
|---|---|
| 生没年 | 1514年(永正11年) – 1563年(永禄6年) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 主な業績 |
|
細川澄元の子として生まれた。細川氏の本家(京兆家)は代々管領をつとめる名門だったが、跡継ぎをめぐって澄元と細川高国が激しく争っていた。晴元はこの争いの中に生まれ、一生を戦いの中で過ごすことになる。
父の澄元が高国との戦いに敗れ、本拠の阿波(徳島県)で亡くなった。幼い晴元は阿波で、父の家臣だった三好元長らに支えられて育った。父の仇である高国を倒し、細川家の当主の座を取り戻すことが、晴元の目標となった。
三好元長らの軍が京都の桂川の戦いで高国の軍を破り、将軍の足利義晴は近江に逃れた。晴元は将軍の弟の足利義維をかつぎ、和泉の堺を拠点に政治を行った。この政権は「堺公方」とも呼ばれる。
摂津での戦いで高国を破り、高国はとらえられて命を落とした(大物崩れ)。長年の父の仇を倒した晴元は、細川京兆家の当主としての地位を確かなものにした。しかし勝利の立役者だった三好元長との間に、すぐにみぞが生まれた。
力を強めた三好元長を恐れた晴元は、本願寺の一向一揆の力を借りて元長を討たせた。ところが一揆の勢いは止まらず、今度は京都の法華宗の信者たちの法華一揆と手を結んで、山科本願寺を焼き打ちさせた。宗教勢力を利用した危うい戦いだった。
将軍の足利義晴と和解し、管領として京都に入って幕府の政治を動かした。この年、延暦寺の僧兵らが京都の法華宗の寺々を焼き払う戦いが起き(天文法華の乱)、晴元もこれを認めたとされる。京都はふたたび戦火に包まれた。
討たれた三好元長の子・三好長慶が成長し、晴元の家臣として力をつけてきた。長慶は父を死に追いやった晴元に複雑な思いを抱きながらも、晴元のために戦い、手柄を重ねていった。やがて長慶の力は主君の晴元をしのぐほどになっていく。
晴元が長慶と対立する一族の三好政長を重く用いたため、長慶はついに晴元にそむいた。摂津の江口の戦いで晴元方は大敗し、政長も討ち死にした。晴元は将軍の足利義輝らとともに近江へ逃れ、京都は長慶がおさえることになった。
将軍の足利義輝が長慶と和解して京都に戻ると、晴元は取り残された。それでも晴元はあきらめず、若狭(福井県)などに身を寄せながら、京都を取り戻そうと何度も兵を挙げた。かつての主君と家臣の立場は、完全に逆転していた。
長い抵抗の末に長慶と和睦し、摂津の普門寺に移った。しかし実際には長慶の監視のもとに置かれ、政治の表舞台に戻ることはなかった。息子の昭元は長慶のもとで細川家の名を継いだが、細川京兆家はもはや力を失っていた。
普門寺で49歳で亡くなった。妻は公家の三条公頼の娘で、その妹は武田信玄の妻となっている。晴元は管領として幕府を動かしたが、家臣だった三好氏に実権を奪われた。主君が家臣に力を奪われる下剋上の時代を象徴する人物とされる。
A. 戦国時代の武将で、室町幕府の管領をつとめた細川京兆家の当主です。父の仇の細川高国を倒して幕府の実権をにぎりましたが、家臣の三好長慶と対立して江口の戦いで敗れ、実権を失いました。下剋上の時代を象徴する人物とされます。
A. 戦国時代の人物です。1514年(永正11年)に生まれ、1563年(永禄6年)に亡くなりました。
A. 長慶は晴元の家臣でしたが、長慶の父の三好元長は晴元と対立して命を落としています。長慶は晴元のために戦って力をつけ、やがて主君をしのぎました。1549年の江口の戦いで晴元を破り、京都の実権をにぎりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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