日本史人生シミュレーター

大内義隆

周防の大名・大寧寺の変
時代:戦国時代 / 1507年〜1551年(44歳ほど)
この人の一生をたどる(自動再生)

歩んだ道

1507年

誕生

大内義興の子として周防山口に生まれた。大内氏は日明貿易と文化で栄える西国の雄だった。幼名は亀嶺。父の上洛や幕府との関わりを身近に見ながら育った。とされる。と伝えられる。

1528年

家督相続

父の死により家督を継いだ。陶興房ら重臣に支えられ、大内領の維持と拡大をはかった。文武両面に関心を持ち、公家や禅僧を厚く遇した。とされる。と伝えられる。記録に残る重要な一事である。

1532年

山口の文化

公家や連歌師、禅僧を招き、山口を京都にならう文化の地とした。自らも雅な教養を好み、戦より文を重んじる姿勢が鮮明になっていった。とされる。と伝えられる。記録に残る重要な一事である。

1539年

遣明船の再開

寧波の乱ののち途絶えていた遣明船を再開し、貿易の利益を回復しようとした。山口には明の文物が集まり、大内文化は最盛を迎えた。とされる。と伝えられる。記録に残る重要な一事である。

1540年

尼子攻め

出雲の尼子氏を攻めるため出陣し、翌年には月山富田城を囲んだ。しかし城は落ちず、国人の離反もあって撤退した。軍事より文化を好む傾向が家臣の不满を招き始めた。とされる。

1542年

富田城の攻囲

尼子晴久の月山富田城を大軍で攻囲したが、長期戦となり兵糧と士気に苦しんだ。撤退の際に損失も大きく、家臣団の義隆への不信が深まったとされる。とされる。と伝えられる。

1543年

種子島と鉄砲

このころ種子島に鉄砲が伝来した。義隆の治世は戦国の技術革新の入口にあたり、西国にも新しい武器の情報が広がり始めた。とされる。と伝えられる。記録に残る重要な一事である。

1549年

陶隆房との亀裂

重臣陶隆房は軍事優先を主張し、義隆の文治路線と対立した。養子問題なども絡み、家中の亀裂は修復しがたくなっていった。とされる。と伝えられる。記録に残る重要な一事である。

1550年

ザビエルとの会見

宣教師フランシスコ・ザビエルと会見し、山口でのキリスト教布教を許した。大道寺を与えたと伝えられ、国際的な視野を持つ大名として知られる。とされる。と伝えられる。記録に残る重要な一事である。

1551年

大寧寺の変

家臣の陶隆房(晴賢)が挙兵し、義隆は長門の大寧寺で自ら命を絶った。文化政治への傾きと重臣との対立が背景とされる。大内氏の最盛はここに大きく揺らいだ。とされる。と伝えられる。

この時代に起きたこと

この人の一生をたどる(自動再生)

関係する人物

大内義興尼子経久陶晴賢(隆房)龍造寺隆信吉川元春フランシスコ・ザビエル毛利元就

同じ時代の人物(戦国・安土桃山)

斎藤道三太原雪斎毛利元就フランシスコ・ザビエル松永久秀北条氏康今川義元今井宗久

戦国・安土桃山の人物一覧 ・ 時代別の人物一覧

教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。

人物一覧へ