生まれた所ははっきりしないが(諸説あり)、のちに堺に出て商人となった。
このころ、堺の茶人・武野紹鴎に茶の湯を学び、その娘と結婚した。紹鴎の名物の茶道具も受けついだ。
このころ、港町堺で倉庫業などをいとなみ、鉄砲や火薬の取り引きでも富をたくわえた。
織田信長が上洛すると、すぐに名物の茶道具を献上して信長に近づいた。信長が堺に重い軍資金を求めたとき、堺の人々に従うよう説いた。
信長から堺の代官などをまかされ、但馬の生野銀山の経営にもかかわった。鉄砲づくりにも協力し、信長の力を経済から支えた。
このころ、千利休・津田宗及とともに信長の茶頭(茶の湯の指導役)をつとめた。茶会は政治の場でもあった。
豊臣秀吉が京都の北野天満宮で開いた大茶会で、利休・宗及とともに茶をたてた。
亡くなった。利休・宗及とともに「天下三宗匠」とよばれ、商人として、茶人として戦国の世を生きぬいた。
大内義隆松永久秀北条氏康今川義元武田信玄陶晴賢(隆房)千利休柴田勝家
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。