何をした人?
甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。父の信虎を追放して家をつぎ、信濃をほぼ手に入れ、越後の上杉謙信と川中島で何度も戦いました。分国法「甲州法度之次第」を定め、信玄堤と呼ばれる治水で知られます。1572年から徳川領へ攻め込み三方ヶ原で家康を破りましたが、その途中で病のため亡くなりました。
| 名前 | 武田信玄 |
|---|---|
| 生没年 | 1521年(大永元年) – 1573年(元亀4年) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 出身地 | 甲斐国(現在の山梨県)。要害山城で生まれたと伝わる |
| 別名 | 武田晴信、徳栄軒信玄 |
| 主な業績 |
|
甲斐(山梨県)の守護・武田信虎の長男として生まれた。名は晴信。
15歳で元服し、将軍・足利義晴から一字をもらって晴信と名のった。父の信虎は弟の信繁をかわいがり、晴信とはうまくいっていなかったと伝わる。
家臣たちと協力して、父の信虎を駿河の今川氏のもとへ追放し、20歳で武田家の当主となった。父の厳しい政治に、家臣や民の不満が高まっていたためとされる。
信濃(長野県)の諏訪を攻め取り、信濃への進出を始めた。甲斐では、たびたびあふれる釜無川に堤防(信玄堤)を築き始め、田畑を水害から守った。
国を治めるための法律「甲州法度之次第」を定めた。家臣どうしのけんかは両方を罰する「けんか両成敗」などが記され、自分自身も法を守ると書いた。
信濃の村上義清と上田原で戦って敗れ、重臣の板垣信方らを失った。大きな痛手となったが、その後も信濃の攻略を進めた。
信濃を追われた村上氏らが越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼り、謙信と川中島で戦い始めた。戦いは12年の間に5回におよんだ。
出家して信玄と名のった。『孫子』の言葉からとった「風林火山」の旗が知られる。
最も激しい戦いとなり、弟の信繁ら多くの武将を失った。謙信が単身で信玄の本陣に切りこんだという話が伝わる(伝説)。
今川氏との関係をめぐって長男の義信と対立し、義信を寺に閉じこめた。義信は2年後に亡くなった。
今川氏との同盟を破り、駿河に攻めこんだ。今川氏が甲斐への塩の運びこみを止めたとき、敵の謙信が塩を送ったという「敵に塩を送る」話は、のちの伝説とされる。
将軍・足利義昭らの呼びかけに応え、大軍で京都をめざして出発した。三方ヶ原の戦いで徳川家康を大いに破った。
三河の野田城を攻めたあと病が重くなり、甲斐へ引き返す途中で亡くなった。「自分の死を3年間かくせ」と言い残したと伝わる。
A. 甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。父の信虎を追放して家をつぎ、信濃をほぼ手に入れ、越後の上杉謙信と川中島で何度も戦いました。分国法「甲州法度之次第」を定め、信玄堤と呼ばれる治水で知られます。1572年から徳川領へ攻め込み三方ヶ原で家康を破りましたが、その途中で病のため亡くなりました。
A. 戦国時代の人物です。1521年(大永元年)に生まれ、1573年(元亀4年)に亡くなりました。
A. 武田信玄は甲斐国(現在の山梨県)。要害山城で生まれたと伝わるの生まれです。
A. 信濃北部の川中島(現在の長野市)をめぐって、武田信玄と上杉謙信が1553年から1564年にかけて5回戦ったとされる戦いです。とくに1561年の第4次合戦が激しかったと伝わります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
この人の一生をたどる(自動再生)上杉謙信足利義昭徳川家康酒井忠次朝倉義景北条氏政今川氏真武田勝頼
松永久秀北条氏康今川義元今井宗久陶晴賢(隆房)千利休柴田勝家三好長慶
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。