日本史人生シミュレーター

武田信玄

戦国大名(甲斐)
時代:戦国時代 / 1521年〜1573年(52歳ほど)

何をした人?
甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。父の信虎を追放して家をつぎ、信濃をほぼ手に入れ、越後の上杉謙信と川中島で何度も戦いました。分国法「甲州法度之次第」を定め、信玄堤と呼ばれる治水で知られます。1572年から徳川領へ攻め込み三方ヶ原で家康を破りましたが、その途中で病のため亡くなりました。

プロフィール

名前武田信玄
生没年1521年(大永元年) – 1573年(元亀4年)
時代戦国時代
出身地甲斐国(現在の山梨県)。要害山城で生まれたと伝わる
別名武田晴信、徳栄軒信玄
主な業績
  • 信濃をほぼ平定する
  • 川中島の戦いで上杉謙信と争う
  • 甲州法度之次第・信玄堤
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歩んだ道

1521年

誕生

甲斐(山梨県)の守護・武田信虎の長男として生まれた。名は晴信。

1536年

元服

15歳で元服し、将軍・足利義晴から一字をもらって晴信と名のった。父の信虎は弟の信繁をかわいがり、晴信とはうまくいっていなかったと伝わる。

1541年

父を追放

家臣たちと協力して、父の信虎を駿河の今川氏のもとへ追放し、20歳で武田家の当主となった。父の厳しい政治に、家臣や民の不満が高まっていたためとされる。

1542年

信濃へ

信濃(長野県)の諏訪を攻め取り、信濃への進出を始めた。甲斐では、たびたびあふれる釜無川に堤防(信玄堤)を築き始め、田畑を水害から守った。

1547年

甲州法度之次第

国を治めるための法律「甲州法度之次第」を定めた。家臣どうしのけんかは両方を罰する「けんか両成敗」などが記され、自分自身も法を守ると書いた。

1548年

上田原の敗北

信濃の村上義清と上田原で戦って敗れ、重臣の板垣信方らを失った。大きな痛手となったが、その後も信濃の攻略を進めた。

1553年

川中島の戦い

信濃を追われた村上氏らが越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼り、謙信と川中島で戦い始めた。戦いは12年の間に5回におよんだ。

1559年

出家

出家して信玄と名のった。『孫子』の言葉からとった「風林火山」の旗が知られる。

1561年

第四次川中島の戦い

最も激しい戦いとなり、弟の信繁ら多くの武将を失った。謙信が単身で信玄の本陣に切りこんだという話が伝わる(伝説)。

1565年

義信事件

今川氏との関係をめぐって長男の義信と対立し、義信を寺に閉じこめた。義信は2年後に亡くなった。

1568年

駿河へ

今川氏との同盟を破り、駿河に攻めこんだ。今川氏が甲斐への塩の運びこみを止めたとき、敵の謙信が塩を送ったという「敵に塩を送る」話は、のちの伝説とされる。

1572年

西上作戦

将軍・足利義昭らの呼びかけに応え、大軍で京都をめざして出発した。三方ヶ原の戦いで徳川家康を大いに破った。

1573年

最期

三河の野田城を攻めたあと病が重くなり、甲斐へ引き返す途中で亡くなった。「自分の死を3年間かくせ」と言い残したと伝わる。

この時代に起きたこと

よくある質問

Q. 武田信玄は何をした人ですか?

A. 甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。父の信虎を追放して家をつぎ、信濃をほぼ手に入れ、越後の上杉謙信と川中島で何度も戦いました。分国法「甲州法度之次第」を定め、信玄堤と呼ばれる治水で知られます。1572年から徳川領へ攻め込み三方ヶ原で家康を破りましたが、その途中で病のため亡くなりました。

Q. 武田信玄はいつの時代の人ですか?

A. 戦国時代の人物です。1521年(大永元年)に生まれ、1573年(元亀4年)に亡くなりました。

Q. 武田信玄の出身地はどこですか?

A. 武田信玄は甲斐国(現在の山梨県)。要害山城で生まれたと伝わるの生まれです。

Q. 川中島の戦いとは何ですか?

A. 信濃北部の川中島(現在の長野市)をめぐって、武田信玄と上杉謙信が1553年から1564年にかけて5回戦ったとされる戦いです。とくに1561年の第4次合戦が激しかったと伝わります。

参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata

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