何をした人?
戦国時代の武将で、室町幕府の管領です。細川家の争い(永正の錯乱)のあと、周防の大内義興と手を結んで京都を押さえ、将軍を立てて長く幕府の政治を動かしました。しかし家臣の離反をきっかけに力を失い、細川晴元・三好氏との戦いに敗れて生涯を終えました。
| 名前 | 細川高国 |
|---|---|
| 生没年 | 1484年(文明16年) – 1531年(享禄4年) |
| 時代 | 室町時代 |
| 主な業績 |
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細川氏の一族である野州家の細川政春の子として生まれた。のちに細川氏の本家(京兆家)の当主で、管領として幕府の実権をにぎっていた細川政元の養子となった。名の「高」の字は、将軍足利義高(のちの義澄)から与えられたものである。
養父の政元が家臣に殺され、跡継ぎをめぐって細川氏の中で争いが起こった(永正の錯乱)。政元には澄之・澄元・高国という三人の養子がいた。高国ははじめ澄元を支持し、澄之を討つことに力を貸して、澄元を細川家の当主に立てた。
周防の大名・大内義興が、追われていた前将軍の足利義稙を連れて上洛してくると、高国は澄元から離れて義興と手を結んだ。京都を押さえて澄元と将軍義澄を近江へ追い、義稙を将軍に戻して、自らは管領となった。
澄元方が京都に攻め上り、高国は一時丹波へ退いた。しかし大内義興とともに反撃し、京都北部の船岡山の戦いで勝利した。澄元方が立てていた前将軍義澄の病死も、高国に有利に働いた。高国と澄元の長い争いは「両細川の乱」と呼ばれる。
十年にわたって京都にとどまり政権を支えた大内義興が、領国の周防へ帰った。これからは高国が一人で政治を進めることになったが、強い軍事の支えを失ったことで、阿波にいた澄元方の巻き返しをまねくことになった。
澄元と家臣の三好之長に攻められて近江へ逃れたが、六角定頼らの助けを得て京都へ攻め返した。等持院の戦いで勝ち、之長は自害、澄元も間もなく阿波で病死した。高国は事実上、京都とその周辺の支配者となった。
高国と不仲になった将軍義稙が京都を離れて淡路へ去ると、高国は前将軍義澄の子の亀王丸を迎えて将軍に立てた。これが12代将軍の足利義晴である。将軍を立てる力をにぎった高国は、室町幕府の政治を動かす中心となった。
中国の明との勘合貿易をめぐり、細川氏と大内氏がそれぞれ送った使節が、明の港・寧波で争う事件が起きた(寧波の乱)。貿易の利益をめぐる両家の対立が表に出たもので、この後、明との貿易は大内氏が中心となっていった。
出家して道永と名乗り、家督と管領の職を息子の稙国にゆずった。ところがその年のうちに稙国が若くして亡くなり、ほかに跡継ぎがいなかったため、高国はふたたび当主として政治にもどらなければならなくなった。
一族の細川尹賢の告げ口を信じ、重臣の香西元盛を殺させてしまった。怒った元盛の兄弟の波多野元清・柳本賢治が背き、阿波では澄元の子の細川晴元と三好元長も兵を挙げた。高国の政権は大きく揺らいだ。
柳本賢治や三好勢の軍が京都に攻め込み、高国は桂川原の戦いで敗れた。将軍義晴を連れて近江へ逃れ、高国の政権は崩れた。その後は越前の朝倉氏や伊勢の北畠氏など各地の大名を訪ねて助けを求め、再起の道を探った。
備前の浦上村宗と結んで摂津へ攻め入ったが、味方と思っていた赤松政祐の裏切りにあい大敗した(大物崩れ)。尼崎に逃れたものの見つかり、広徳寺で自ら命を絶った。辞世の歌を、娘婿の北畠晴具に送ったと伝わる。
A. 戦国時代の武将で、室町幕府の管領です。細川家の争い(永正の錯乱)のあと、周防の大内義興と手を結んで京都を押さえ、将軍を立てて長く幕府の政治を動かしました。しかし家臣の離反をきっかけに力を失い、細川晴元・三好氏との戦いに敗れて生涯を終えました。
A. 室町時代の人物です。1484年(文明16年)に生まれ、1531年(享禄4年)に亡くなりました。
A. 支えだった大内義興が国へ帰ったあと、1526年に家臣の香西元盛を討たせたことで、その兄弟たちが離反し、四国の細川晴元・三好氏と結んだためです。翌年の桂川の戦いに敗れて京都を追われ、立て直しをはかりましたが、1531年の大物崩れで敗れました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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