何をした人?
越前(福井県)の朝倉家の一族で、本名は朝倉教景です。3代の当主を支えた名将で、1506年の九頭竜川の戦いで一向一揆の大軍を退けました。幕府の求めで若狭や京都にも出陣し、その言葉は『朝倉宗滴話記』に残っています。
| 名前 | 朝倉宗滴 |
|---|---|
| 生没年 | 1477年(文明9年) – 1555年(弘治元年) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 出身地 | 越前国 |
| 別名 | 朝倉教景 |
| 主な業績 |
|
越前国(福井県)の戦国大名・朝倉孝景の八男として生まれた。本当の名は教景で、宗滴は出家してからの名である。生まれた年を1474年とする説もある(諸説あり)。幼いころは寺で過ごしたと伝わり、のちに一族の重鎮として朝倉家を支えることになる。
父の孝景が亡くなり、兄の氏景が家督を継いだ。宗滴はまだ幼く、当主になることはなかった。のちに宗滴は、兄の子の貞景、その子の孝景、さらにその子の義景と、三代の当主をそばで支えていく。朝倉家の中で、戦と政治の両方を担う重臣となっていった。
一族の朝倉景豊が当主の貞景に背こうとしたとき、宗滴は誘いを断って寺に入り、計画を貞景に知らせた。景豊は責任を問われて自害し、宗滴はこの功で敦賀郡司となって金ヶ崎城の主となった。ここから朝倉家の軍事を取り仕切るようになった。
加賀などの一向一揆の大軍が越前に攻め込んだ。宗滴は総大将として朝倉軍を率い、九頭竜川の一帯で迎え撃った。一揆の軍は数十万ともいわれる(誇張とされる)のに対し、朝倉軍はずっと少なかったが、激しい戦いの末に一揆軍を退けた。宗滴の名を高めた戦いである。
室町幕府の命令を受け、若狭の守護・武田氏を助けるために若狭や丹後へ出陣し、反乱をしずめた。朝倉家の出兵の多くは幕府の求めによるもので、宗滴の活躍は朝倉家の家の格を高めることにもつながった。越前の外でも名の知られた武将となっていった。
近江の浅井亮政と六角氏が争ったとき、宗滴は兵を率いて浅井氏の小谷城へ出向き、5か月ほどとどまって両者の仲立ちをした。このとき亮政を助けたことが、のちまで続く朝倉家と浅井家の固い結びつきのもとになったとされる。
近江に逃れていた将軍足利義晴と管領の細川高国に頼まれ、軍を率いて京都へのぼった。三好氏などの軍と戦って勝ちをおさめ、朝倉家の名を都にも広めた。翌年には高国と意見が合わなくなり、越前へ引き上げたとされる。
朝倉家の当主が若い義景にかわると、宗滴は一族の長老としてこれを支えた。このころの朝倉家は、一乗谷を中心に京都の文化も取り入れて栄えていた。宗滴は名物の茶入れ「九十九髪茄子」を持っていたことでも知られ、茶の湯にも親しんでいた。
越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)と呼応して、加賀の一向一揆を攻めるために出陣した。高齢にもかかわらず、加賀に入ると一日で三つの城を落としたという。しかしその後は一揆側の反撃もあって戦いは長引き、宗滴は陣中で病に倒れて一乗谷へ戻った。
手厚い看病を受けたが、一乗谷で病のため亡くなった。宗滴の言葉をまとめた『朝倉宗滴話記』には、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」など、戦国武将の心がまえが記されている。宗滴の死後、朝倉家の軍は柱を失ったともいわれる。
A. 越前(福井県)の朝倉家の一族で、本名は朝倉教景です。3代の当主を支えた名将で、1506年の九頭竜川の戦いで一向一揆の大軍を退けました。幕府の求めで若狭や京都にも出陣し、その言葉は『朝倉宗滴話記』に残っています。
A. 戦国時代の人物です。1477年(文明9年)に生まれ、1555年(弘治元年)に亡くなりました。
A. 朝倉宗滴は越前国の生まれです。
A. 宗滴の言葉をまとめた『朝倉宗滴話記』には「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という言葉があり、何と言われようと勝つことがいちばん大切だという戦国武将の心がまえを表しています。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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