今川範国の次男として生まれた。生年は嘉暦元年(1326)とされるが、1325年説もある。今川氏は足利一門で、のちに駿河を本拠とする守護大名となる家柄だった。幼名や通称は六郎。
南北朝の動乱と観応の擾乱の時代に、足利尊氏・義詮に仕えて戦功を重ねた。政争の激しいなかでも家を守り、武将としての経験を積んだ。のちに九州で大きな任を担う下地が、このころ形づくられた。
南朝方の菊池氏らが強い九州を抑えるため、幕府は貞世を九州探題に任じた。赴任に先立ち周到に準備し、現地の武士を味方につけて大宰府方面へ進んだ。長い九州経営の始まりだった。
筑前の大宰府を攻め落とし、南朝方を後退させた。時間をかけて包囲網を築く戦略で、勇将・菊池武光らを圧した。探題として九州の北朝方をまとめ、幕府の権威を西国に広げようとした。
肥後の水島で、味方の少弐冬資を疑って討った事件が起きた。少弐氏や島津・大友らの反感を買い、探題は孤立しやすくなった。智将らしい慎重さとは裏腹の失敗として、九州経営を長く苦しめることになる。
粘り強い攻勢で菊池氏の本拠を攻め、菊池城を落とした。その後も八代など南朝方の拠点を攻め続け、1390年代はじめに九州の南朝勢力をほぼ屈服させた。長い戦いの末の平定だった。
将軍足利義満に召還され、九州探題を解任された。有力大名との関係悪化や勢力の大きさへの警戒が背景とされる。後任は渋川満頼。二十年以上支えた九州経営は、突然終わりを迎えた。
出家して了俊と名乗り、駿河などで過ごしながら著作に励んだ。応永9年に『難太平記』をまとめ、今川氏の功績や自らの立場、幕政への不満を子孫に伝えた。歌人としても多くの書を残した。
冷泉為尹や正徹らと交わり、歌学書や紀行を次々に書いた。戦場を離れた晩年は、文の世界で長く生きた。探題時代の緊張とは対照的な、穏やかで知的な日々だったと伝えられる。
応永27年(1420)に没したと家譜は伝えるが、1418年にはすでに亡くなっていたとする記録もあり、没年は諸説ある。享年は九十前後。武将であり歌人でもあった生涯は、室町前期を象徴する一人として語りつがれる。
新田義貞足利尊氏足利直義二条良基細川頼之足利義詮観阿弥足利基氏
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。