日本史人生シミュレーター

二条良基

公家・連歌の大成者
時代:鎌倉末〜南北朝時代 / 1320年〜1388年(68歳ほど)
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歩んだ道

1320年

誕生

摂関家の一つ二条家に、関白・二条道平の子として生まれた。母は右大臣・今出川公顕の娘。幼いころから和歌や漢学、宮廷の儀式の作法を学び、名門の跡継ぎとして大切に育てられた。

1327年

元服

元服して朝廷の位を与えられ、はじめは後醍醐天皇に仕えた。少年時代の良基は、天皇が鎌倉幕府を倒し、建武の新政を始めるという大きな時代の変化を、宮廷の中から見ることになった。

1336年

北朝に仕える

足利尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野へ移ると、朝廷は二つに分かれた(南北朝)。父の道平はすでに亡く、良基は京都に残って北朝に仕える道を選び、若くして重い役目を任されていった。

1346年

関白に

26歳で光明天皇の関白となった。戦乱で途絶えがちだった朝廷の儀式や行事を立て直すことに力を注ぎ、くわしい記録や作法の書を数多く残した。以後、北朝の朝廷を支える中心人物となった。

1353年

美濃への避難

南朝の軍が京都に攻め入ったため、後光厳天皇とともに美濃(岐阜県)の小島へ逃れた。このときの苦しい旅と、仮の御所で過ごした日々のようすを、かな文の紀行『小島のすさみ』に書き残した。

1356年

菟玖波集

連歌の師・救済の協力を得て、連歌集『菟玖波集』20巻を編んだ。古い時代から当時までの名句およそ2190句を集めたもので、足利尊氏や佐々木道誉ら武家の句も多く選ばれた。

1357年

准勅撰となる

佐々木道誉らの後押しもあり、『菟玖波集』は天皇の命で編まれた歌集に準じる扱い(准勅撰)を受けた。これによって連歌は和歌の余興ではなく、一つの独立した文芸として認められるようになった。

1372年

応安新式

連歌を詠むときの細かな決まり(式目)を整理し、「応安新式」として定めた。それまでばらばらだった規則が統一され、この式目は後の時代まで連歌の基本として長く使われた。『筑波問答』などの連歌論も著した。

1378年

世阿弥を見いだす

このころ、猿楽の少年・藤若(のちの世阿弥)の才能を高く評価した。「藤若」という名は良基が与えたもので、良基はその姿の美しさや蹴鞠・連歌の才をほめたたえる手紙を残している。世阿弥の芸の理論には良基の連歌論の影響が見られる。

1378年

足利義満を導く

若い将軍・足利義満が朝廷の世界に入っていくにあたり、公家の儀式の作法や教養を教えて後ろ盾となった。義満は良基の助けを得て公家社会でも重んじられ、やがて朝廷と武家の両方をおさえる権力者となった。

1382年

摂政に

後小松天皇が幼くして即位すると、まもなくその摂政となった。その後も摂政・関白を何度もつとめ、北朝の朝廷を長く支え続けた。和歌の師・頓阿との問答をまとめた歌論『愚問賢注』も残している。

1387年

近来風体抄

晩年、歌論『近来風体抄』を著し、当時の歌人たちの歌のようすや、和歌のあるべき姿について語った。また、歴史物語『増鏡』の作者を良基とする説もある(諸説あり)。

1388年

最期

この年、三たび関白に任じられたが、そのわずか2か月ほど後に亡くなった。政治家としてだけでなく、連歌を大成させた文化人として、のちの宗祇らにつながる連歌の道を開いた。

この時代に起きたこと

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