何をした人?
室町幕府の3代将軍です。1392年に南北朝の合一を実現し、京都の室町に「花の御所」を建てて幕府の力を最も強めました。明と国交を開いて勘合貿易を始め、北山に金閣(鹿苑寺)を建てて北山文化を栄えさせました。
| 名前 | 足利義満 |
|---|---|
| 生没年 | 1358年(延文3年(正平13年)) – 1408年(応永15年) |
| 時代 | 室町時代 |
| 出身地 | 京(現在の京都市) |
| 別名 | 鹿苑院、北山殿 |
| 主な業績 |
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2代将軍・足利義詮の子として生まれた。祖父の尊氏が亡くなった年だった。幼いころは南朝方の攻撃で京都を逃れ、播磨(兵庫県)の赤松氏にかくまわれたこともあった。
父が亡くなり、10歳で3代将軍となった。管領の細川頼之が幼い将軍を支え、幕府の力を立て直した。
京都の今熊野で観阿弥・世阿弥親子の猿楽能を見て心をうばわれ、少年の世阿弥をそばに置いてかわいがった(1375年説も)。将軍の保護を受けて、能は大きく発展した。
京都の室町に、花の咲く木々を植えた大きな屋敷「花の御所」を建てて移った。ここから室町幕府という呼び名が生まれた。
有力な守護大名たちの反発で細川頼之が管領をやめた(康暦の政変)。21歳の義満は、守護大名たちの力を利用しながら、自ら政治を動かすようになった。
11か国の守護をかねて「六分の一殿」と呼ばれた山名氏の内部争いにつけこみ、山名氏清らを討った(明徳の乱)。強すぎる守護大名の力をおさえた。
南朝の後亀山天皇に北朝の後小松天皇へ位をゆずらせ、50年以上続いた南北朝の争いを終わらせた。
将軍を8歳の子・義持にゆずり、自分は太政大臣となった。翌年には出家したが、その後も実権をにぎり続けた。武士でありながら公家の頂点にも立った。
京都の北山に山荘(北山殿)を建て始めた。金箔をはった舎利殿は、のちに金閣と呼ばれる。公家の文化と武家の文化、禅宗の文化がまじりあった北山文化が栄えた。
6か国の守護で、朝鮮との貿易でも力をつけた大内義弘が反乱を起こしたが、義満はこれを堺で破った(応永の乱)。
明(中国)に使いを送り、国交を開いた。翌年、明の皇帝から「日本国王」と認められた。
倭寇と区別するため「勘合」という合い札を使う、明との貿易を始めた。銅銭や生糸などが輸入され、幕府は大きな利益を得た。
病気のため北山殿で亡くなった。朝廷は太上天皇の称号を贈ろうとしたが、子の義持が辞退したと伝わる。義持は父の明との貿易をいったん取りやめた。
A. 室町幕府の3代将軍です。1392年に南北朝の合一を実現し、京都の室町に「花の御所」を建てて幕府の力を最も強めました。明と国交を開いて勘合貿易を始め、北山に金閣(鹿苑寺)を建てて北山文化を栄えさせました。
A. 室町時代の人物です。1358年(延文3年(正平13年))に生まれ、1408年(応永15年)に亡くなりました。
A. 足利義満は京(現在の京都市)の生まれです。
A. 明との正式な貿易で、倭寇(海賊)と区別するために「勘合」という合い札を使ったことからこう呼ばれます。日本は刀剣や銅などを輸出し、銅銭(明銭)や生糸などを輸入しました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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