足利尊氏の子として生まれた。母は正室の赤橋登子で、のちに2代将軍となる足利義詮とは同じ母から生まれた弟にあたる。幼いころの名は亀若丸と伝わる。父の尊氏が室町幕府を開いて間もないころで、各地ではまだ南朝との戦いが続いていた。
鎌倉で関東を治めていた兄の義詮が、京都に呼び戻されて幕府の政治を担うことになった。入れかわりに基氏が鎌倉へ下り、関東を治める鎌倉公方となった。このとき9歳の少年で、関東管領の上杉憲顕と高師冬が幼い基氏を支えて政治を行った。
尊氏と弟の直義の争いである観応の擾乱が激しくなった。基氏は叔父直義の養子になっていたともいわれ、父と叔父の間で苦しい立場に置かれた。関東でも両派の武士がぶつかり、補佐役の高師冬は直義派との戦いに敗れて命を落とした。
尊氏と争って敗れた叔父の直義が、鎌倉で亡くなった。毒によるものだといううわさも伝わっているが、はっきりしたことはわからない。同じ年、基氏は元服して大人の仲間入りをした。かわいがってくれた叔父の死は、少年の基氏に深い影響を与えたと考えられている。
尊氏が京都に戻ると、基氏は鎌倉を離れて武蔵国の入間川に陣を構えた。南朝方の新田氏の勢力に備えるためで、およそ9年にわたってここに留まり、関東の武士たちをまとめた。このことから、基氏は「入間川殿」とも呼ばれている。
父の尊氏が京都で亡くなり、兄の義詮が2代将軍となった。同じ年、関東で南朝方として活動していた新田義興が、武蔵国の矢口の渡しで世を去った。基氏は京都の兄と力を合わせながら、関東の守りと安定に力を注いでいった。
関東執事の畠山国清は、関東の兵を率いて畿内の南朝方を攻めたが成果があがらず、武士たちの不満を集めていた。基氏は武士たちの訴えを聞き入れて国清を退け、こののちは自ら政治の中心に立った。これにより鎌倉公方の力は大きく強まった。
かつて直義の側について退けられていた上杉憲顕を、関東管領として呼び戻した。これに反発した宇都宮氏の重臣芳賀禅可の軍とは武蔵国の岩殿山で戦い、基氏は自ら兵を率いて勝利した。これ以後、関東管領は上杉氏が受け継いでいくことになる。
この年、従三位に叙せられた。基氏は鎌倉に来た禅僧の義堂周信を深く敬い、たびたび教えを受けた。また笙を楽人の豊原成秋に習うなど、音楽にも親しんだ。戦いに出る武将である一方、学問と芸術を大切にする教養人としても知られている。
はしかにかかり、この年27歳の若さで亡くなった。子の足利氏満が2代鎌倉公方を継いだ。基氏が築いたしくみは、関東を治める鎌倉府の基礎となった。一方で、のちの鎌倉公方は京都の将軍としばしば対立するようになり、関東の混乱の種ともなった。
今川貞世(了俊)細川頼之足利義詮観阿弥斯波義将足利義満世阿弥尚巴志
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