熊本県玉名郡春富村(今の和水町)で、8人きょうだいの7番目として生まれた。四三という名は、父が四十三歳のときの子だったことから付けられたと伝わる。幼いころは体が弱く、よく熱を出す子どもだったと伝わる。のちに日本のマラソンを切り開く人物とは、まだ誰も想像していなかった。
このころ、家から片道およそ6キロある高等小学校まで、毎日走って通った。行きも帰りも走ることで体はしだいに丈夫になり、のちに「かけあし登校で足がきたえられた」と語ったと伝わる。走りながら工夫した息のしかたが、のちのマラソンにも生きた。
東京高等師範学校(今の筑波大学)に入学した。校長は柔道の創始者で、日本のオリンピック参加に力を注いでいた嘉納治五郎だった。学校の長距離走の大会で好成績をあげた四三は、走ることの楽しさにめざめていった。
オリンピックに送る選手を選ぶ予選会が東京の羽田で開かれ、四三はマラソンで2時間32分45秒という、当時の世界記録を大きく上回る記録で優勝した(距離が正確でなかったともいわれる)。この結果で日本代表に選ばれた。
日本が初めて参加したストックホルムオリンピックに、短距離の三島弥彦とともに出場した。しかし長い船と鉄道の旅の疲れや、例年にない暑さのため、レースの途中で意識を失って倒れ、近くの家で手当てを受けた。棄権が伝わらず「行方不明」とされた。
敗北をばねに練習を重ねる一方、走るための道具の改良にも取り組んだ。東京の足袋屋・播磨屋の黒坂辛作と相談し、底を厚く丈夫にした足袋を工夫した。のちにゴム底を付けた「金栗足袋」が生まれ、多くのランナーに使われた。
次のベルリン大会での雪辱をめざして練習を続け、記録をのばしていたが、第一次世界大戦のため大会は中止となった。もっとも力の充実した時期に走る場を失ったことは、四三にとって大きな悲しみだった。
京都の三条大橋から東京の上野まで、東海道を仲間と走りつないで競う、日本で初めての駅伝が開かれ、四三は関東の組のアンカーとして走った。たすきをつないで長い道のりを走るこの競技は、のちに日本中に広まっていった。
世界で戦える長距離ランナーを育てたいと考え、東京と箱根を往復する大学の駅伝大会を仲間と計画し、第1回の大会が開かれた。これが今も続く箱根駅伝の始まりである。この年、アントワープ大会のマラソンにも出場し、16位でゴールした。
パリ大会のマラソンに出場したが、途中で走るのをやめた。選手としての挑戦はここで終わったが、その後は教師として子どもたちに体育を教え、女子の体育の普及やマラソンの指導に力を注いだ。
ストックホルムオリンピック55周年の記念行事に招かれ、競技場をゆっくり走ってゴールテープを切った。記録は「54年8か月6日5時間32分20秒3」と発表された。四三は「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」と語ったと伝わる。
故郷の熊本県で、92歳で亡くなった。オリンピックでの悔しさを、駅伝やマラソンの普及、後進の育成という形で生かした四三は「日本マラソンの父」と呼ばれる。箱根駅伝の最優秀選手には、今も「金栗四三杯」がおくられている。
中山晋平菊池寛賀川豊彦岸田劉生芥川龍之介市川房枝伊藤野枝宮沢賢治
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