何をした人?
室町時代後期の絵師で、狩野派の2代目です。狩野派をはじめた狩野正信の子として京都に生まれ、将軍家や管領細川家、寺社、朝廷などの仕事を引き受けました。中国風の水墨画に大和絵のあざやかな色づかいを取り入れ、工房で多くの弟子が同じ質の絵を描ける仕組みを整えて、狩野派が長く栄える土台をつくりました。
| 名前 | 狩野元信 |
|---|---|
| 生没年 | 1476年(文明8年) – 1559年(永禄2年) |
| 時代 | 室町時代 |
| 出身地 | 京都 |
| 別名 | 古法眼 |
| 主な業績 |
|
京都で、絵師の狩野正信の子(長男または次男とされる)として生まれた。幼い名は四郎二郎。父の正信は室町幕府に仕える御用絵師で、中国風の水墨画を得意とし、狩野派の祖とされる。元信は幼いころから父の工房で筆の使い方を学んで育った。
十歳のころ、9代将軍足利義尚のそば近くに仕えるようになり、のちに足利義澄にも仕えたとされる。父の正信が将軍家の御用を務めていた縁によるものと考えられている。幕府の中で、身分の高い人々の好みや、ものの見方にふれる機会になった。
管領家の細川澄元が戦いに出る姿を描いた肖像画を制作した。描かれた年がはっきりしている元信の作品としては、これが最初のものである。応仁の乱のあと、細川家の中で争いが続く時代で、武将たちは自分の姿を絵に残すことを求めていた。
細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を描いたことが記録に残る。同じころ、大徳寺大仙院の部屋をかざる障壁画も描いたとされる(制作年は諸説あり)。色あざやかな花や鳥、力強い松や滝を描いた「四季花鳥図」は、元信の画風を最もよく伝える代表作とされる。
父の正信が亡くなり、元信が名実ともに狩野派の中心となった。幕府や寺だけでなく、京都の町衆にも絵をかいた扇を売り、扇をつくる商人の仲間の中心人物にもなった。絵師であると同時に、多くの弟子を動かす工房の主として腕をふるった。
このころから約十五年にわたり、大坂の石山本願寺の障壁画の制作にたずさわった。浄土真宗の大きな寺の注文は数が多く、元信は弟子たちと手分けしてこなした。注文主が幕府、朝廷、寺、町衆と広がるにつれ、狩野派の工房はますます大きくなった。
天皇の住まいである内裏の小御所の障壁画を描き、同じころ京都の妙心寺霊雲院の部屋の絵も手がけた。霊雲院の絵は今も残り、水墨を中心に落ち着いた山水や花鳥が描かれている。朝廷からも寺からも頼られる絵師として、元信の名は高まった。
このころ、細川氏綱の依頼で、亡き細川高国の肖像画を描いたとされる。高国の十三回忌の法要のためにつくられたと考えられている。若いころに仕事を命じてくれた高国を、元信はふたたび絵の中に描くことになった。肖像画も得意とし、連歌師宗祇の姿を描いた作品も伝わる。
このころ、僧の位である法眼をさずけられ、のちに「古法眼」と呼ばれた。中国の名画家の筆づかいを整理し、書道の「真・行・草」になぞらえた三つの描き方を定めて弟子に学ばせたとされる。注文が多くても同じ質の絵を描ける仕組みは、のちの狩野派の土台となった。
このころ、金地に色あざやかな花や鳥を描いた「四季花鳥図屏風」を制作した。中国風の力強い筆づかいに、大和絵の華やかな色づかいを取り入れたもので、土佐派の絵師土佐光信の娘を妻にしたとも伝わる。和と漢をあわせる姿勢は、狩野派の大きな特色となった。
京都で亡くなった。墓は京都の妙覚寺にある。元信が整えた工房の仕組みと和漢をあわせた画風は、子の松栄、孫の狩野永徳へと受け継がれた。狩野派はこのあと江戸時代の終わりまで、四百年近く日本の絵の世界の中心にあり続けた。
A. 室町時代後期の絵師で、狩野派の2代目です。狩野派をはじめた狩野正信の子として京都に生まれ、将軍家や管領細川家、寺社、朝廷などの仕事を引き受けました。中国風の水墨画に大和絵のあざやかな色づかいを取り入れ、工房で多くの弟子が同じ質の絵を描ける仕組みを整えて、狩野派が長く栄える土台をつくりました。
A. 室町時代の人物です。1476年(文明8年)に生まれ、1559年(永禄2年)に亡くなりました。
A. 狩野元信は京都の生まれです。
A. 元信は僧の位である「法眼」をさずけられました。のちの狩野派にも法眼になった絵師が何人も出たため、それらと区別し、狩野派を大きく育てた最初の法眼として敬意をこめて「古法眼」と呼ばれるようになりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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